壇ノ浦だんのうらの戦い

源平最後の戦いは日本史上まれな海戦となりました。一ノ谷いちのたに屋島やしまの両合戦の敗北は平家方をますます窮地に追いやりました。都を追われたとはいえ、天皇と三種の神器を擁し、両国に多くの根拠地を持つ平家は当初、まだまだその時代は続くものと見られていました。しかし先の2つの大敗北が諸国の武士団に「平家の時代は終わった」と印象付け、いくつもの武士団が平家を見限っていきました。なかでも大きかったのは、伊予いよ熊野くまのなどの水軍が源氏に味方し始めたことでした。源氏も海戦をする力を持ちました。壇ノ浦付近の海は潮の流れが激しいことで知られます。この日の朝、潮は西から東へと流れていました。東流の潮に乗った平氏軍は一時、源氏軍を圧倒しました。源氏軍ははるか東方まで退きました。しかし、潮の流れは一定ではありませんでした。正午になると流れは逆になり、源平の攻勢も一転しました。源氏軍は押しに押しまくりました。このタイミングで3年も平家方に尽くしてきた阿波民部重能あわのみんぶしげかつは、息子の教能のりかつが源氏に生け捕りにされたこともあり、突如源氏方に寝返りました。それに連動するように、四国や九州の兵士たちも次々に平家を裏切り、源氏方に付きました。見るも明らかに平家は力を失いました。この戦いは本格的な海戦でした。伊予や熊野の水軍が味方に付いたとはいえ、源氏にとっては不得手の戦いでした。しかし義経は、当時のものが誰も考え付かない「奇略」をつかって勝ちました。義経の使った奇略とは平家の船の水手かこ梶取かんどりを射殺すというものでした。船の操縦者を殺すことにより平家の船を操縦不能にしました。近代海戦では船の操縦手は戦闘員ですが、この時代は非戦闘員でした。名乗りを上げる敵将を殺すことはあっても、武器を持たない水手たちを殺そうとは誰も考えていませんでした。「発想の転換」といえども、狙われるのは武人だけで船を漕ぐだけに協力をしたつもりが殺されていった水手たちの気持ちはいかばかりだったでしょう。ともかく源氏の兵たちは平家の船に乗り移っては船頭や船子を殺しまくり、平家の船は次々に行動不能になりました。夜明けと同時に始まった合戦は午後には決着が付きました。新中納言知盛とももりは帝の御座船に乗りつけ、平家はもはやこれまでと、一同に最期の覚悟をうながしました。清盛の妻であり幼い安徳天皇あんとくてんのうの祖母である二位尼にいのあまは、「仇の手にはかかりたくありません。安徳帝のお供をしてまいります。志のある方々は後に続きなさい」と入水の決心を口にしました。8歳の安徳天皇がどこに連れて行くのかと尋ねると、二位尼は「この世はいやなことばかりあるところですから、極楽浄土というすばらしいところへまいりましょう」と答えました。そうして、帝が小さな手を合わせて東の伊勢神宮、西の西方浄土を拝むと、尼は帝をしっかり抱き上げて海に沈みました。それを見届けた女官たちも皆海の中へ……。こうして壇ノ浦は平家の悲劇の色で覆われ、ついに源平合戦は最終決着しました。