屋島やしまの戦い

一ノ谷で敗れた平家は四国の屋島に逃げました。義経は単独で150騎の兵を率いて暴風雨の中、普通3日はかかる行程を6時間で阿波あわ勝浦かつうらに渡りました。義経はわざと5~6騎ずつの群で出現させたので、平家方は大軍勢と錯覚しました。慌てて船に乗り込み沖めがけて逃げ出しました。義経が法皇の院宣いんぜんを受けて平家討伐に来たと名乗りを上げると海と陸との戦闘が始まりました。この戦いで佐藤三郎兵衛嗣信つぐのぶは、義経の矢面に立ちその盾となって倒れました。死の間際、嗣信は「奥州の佐藤三郎兵衛嗣信という者が、屋島の磯で主君の身代わりになって討たれたと末代まで語られてこそ武士の名誉」と義経に語り、死にました。義経ははらはらと落涙し、手厚く弔わせると自分の愛馬を布施ふせに出しました。これを見た他の家来たちは、義経のためなら命など惜しくないと感激して泣きました。夕方、平家方から日の丸の扇を掲げた一艘の船が渚によってきました。弓で射よということだろう。乗っている女官が手招きをしました。義経は弓矢の名手・那須与一宗高なすのよいちむねたかに扇を射るように命じました。「南無八幡大菩薩なむはちまんだいぼさつ、願わくばあの扇を射させよ」。与一は見事大役を果たしました。義経は戦闘中うっかり弓を落とし、それを必死で拾おうと味方をハラハラさせました。理由は、源氏の大将の弓矢がこの程度の弓矢かと笑われたくなかったからです。チビで力の弱いことを隠そうと必死だったようです。ともあれ義経あってこそのこの合戦、梶原景時かじわらのかげときが主力の大船団とともに屋島に着いたときには、平家は逃げ去った後でした。