一ノ谷いちのたにの戦い

1184年(寿永3年)2月7日に起こった摂津せっつ国一ノ谷(現・神戸市)での合戦は、源義経の奇襲によって源氏が勝ったと言われています。平氏方の陣の背後、鵯越ひよどりごえの急勾配の坂を一気に馬で駆け降り平家を討ちました。義経の戦上手を伝える「鵯越の逆落さかおとし」の名場面です。しかしこの戦の勝利を決定付けたのは義経の奇襲ではありません。そこにはカラクリがありました。後白河法皇による停戦命令です。合戦の前日、後白河法皇の近臣・修理権大夫しゅりごんだゆうという者から、平家に使者が送られました。持参した手紙には「源平の和平の件でそちらに向かうので、交渉が終わるまで一切戦闘行為をしないように。このことは関東武士(源氏)にも伝えてあるので、平氏方も徹底すること」とありました。この停戦命令を律儀に信じた平氏方は、安心して武装を解除しました。ここに源氏の大群が襲い掛かりました。平氏方の死者は1000余人。重衡しげひらは捕虜となり、忠度ただのり以下、経正つねまさ経俊つねとし敦盛あつもりなど、多くの一門が討たれました。生き残ったのは沖合の船上にいた総大将宗盛むねもりのみでした。これに憤慨した宗盛は、合戦後、法皇に抗議の手紙を送っていますが後の祭りでした。この合戦がターニングポイントとなり、以後平家は、急速に滅亡の道を辿ります。