もう一度グラスを合わせたとき、柏原が、おや、という顔で入り口のほうを見た。二人の男が頭をさげながら急ぎ足でこっちのテーブルに近づいてきていた。スナックバーで遇った大分共同新聞社会部の両人であった。「どうもさきほどは失礼しました。」小脂りの社会部次長が言った。「失礼ついでに、ちょっとお願いがあります。じつは、うちあけて申しますと、わたしどもは、わが郷土の大分県竹田地方がこのプロヴァンス地方の風景から文物まで非常に類似点の多いことから、ゆくゆくは姉妹都市にしようと、紙上で一大キャンペーンを起こそうと考えて、その取材に来たのです。「ははあ、そういうことですか。そんなに大分県の竹田地方とこっちとはよく似ていますか」木村は立って聞いた。先方の二人は、なにやら急ぐらしく立ったままであった。「竹田市というのは、豊後の岡城の城下町です。荒城の月の岡城です。」社会部次長が言葉を添えた。「ああ滝廉太郎作曲の?」「そうです、そうです。それとこっちのレ・ボーとが似ています」「レ・ボーはぼくらも行きましたが、どこが似ているんですか」「レ・ボーも城がうちこわされて、城垣の石がすこし残っているだけです。中世の荒城です。あそこには曽つて諸国を回る吟遊詩人が立ち寄ったり、滞在したりして貴婦人たちのために竪琴を奏で詩を歌っていました。「ああ、トルバドゥールですね」「そうです。トルバドゥールは竪琴を弾じて、高楼の美姫たちから『その歌、鶯よりもめでたし』といって迎えられたそうです。「ロマンチックですなア」「すごくね。そのほか共通点はいっぱいあります。豊後の大野川に対してこちらのローヌ川。竹田地方の水道の橋に対して、こちらのポン・デュ・ガール」木村は、多島通子を思い出す。東京渇水のときに彼女が送ってくれた「竹田エビアン」に付いていた小型パンフレットのことだ。それには煉瓦形の切石を積んだアーチ形の橋の写真があり、説明に、「日本一の水路橋。明正井路。ローマ遺跡を思わせる大きな水路橋です。長さ九〇メートル、六連の連続アーチ式石橋」とあったのを憶えている。あのときは次長(デスク)の辻もいっしょに読んで、調査部からパン・デュ・ガールの資料など借り出して、その明正井路の水路橋と比較したものだった。思えば、その多島通子の投書一枚からこの「プロヴァンス駅伝競走」の企画が発足した。そうしてその実現のために今夜ここにこうして自分が来ているかと思うと、ふしぎな運命に引かれているような、なんともいえない気持ちに木村はなった。「なに、竹田地方にも水道橋があるのですか」柏原がきく。「ポン・デュ・ガールとは比較になりませんが、それでも大正初期にできた六連のアーチをもつ石造りの水路橋です。「ははあ」「それに涌き水が澄んで飲料水になっています。阿蘇の溶岩の間から出るんです。それはこっちのエクス・アン・プロヴァンスと同じです」柏原は感心していた。「まだあります。画家は
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