キリシタン洞窟礼拝堂どうくつれいはいどう

市内殿町武家屋敷が並ぶ一角で岡城から延びた丘の下に赤松谷という断崖に囲まれた谷間があります。凝灰岩の断崖に自然に出来た30畳位の広さの洞窟があり、それに接して幅1.7m、高さ2.6mの寺院の書院窓のような入り口があります。奥行きは1.75m、内部は6畳の広さで天井はドーム型に削られており、土間のつきあたりには、赤土色の漆喰で塗られた祭壇らしい物があります。全体として均整が取れており、信仰心をそそります。1618年、ローマに送られたコスタンソの書簡には、ナパロ、ブルドリノの両神父が弾圧の中で幾日もの間、森林の中の洞窟や穴に隠れながら布教活動を続け、訪ねてくる人々の話を聞いてあげたり、また手紙によって信者を励ましたりした事が書かれています。さらに、「志賀はブルドリノの受持ちである。そこには幾人かの領主がいて弾圧したが、一人の良き理解ある領主は切支丹に好意を持っている。そして、そこから厳重な守備をしていて入り難い肥後へ潜入し旅を続けた」とあります。「志賀」とは前領主志賀氏の領有地と言う意味で、中川氏が移封された後もこの名称を使っていたと思われます。隠れ住んだ「洞窟」とは、このキリシタン洞窟礼拝堂と考えられます。大友宗麟はフランシスコの教名を持ち、積極的に布教に便宜を図り、その一族である岡の領主、志賀親次もドンパウロの教名を持っていました。そして太閤秀吉の禁教令に対して、国を捨てても信仰を守ると志を変えようとしなかったので、岡藩内には8千余人のキリシタンがいたといわれています。移封された初代中川秀成の家臣の中にも摂津茨木、播州三木の時代からの信者がいたそうです。朝鮮出兵、城作り、町作り、領民や家臣への新体制の徹底、関が原の戦いから大阪夏の陣までの多忙さに終われ、キリシタンの取締りまでなかなか手が回らなかったようです。二代藩主久盛がこれを厳しく取り締まろうとしたが、逃散する者が多く、考えを変えざるを得なかったと記録に残されていますが、洞窟の神父に対しては見て見ぬふりをしていたのでしょう。