中川 久貞なかがわひささだ

6代久忠を最後に、岡藩は子供に恵まれず養子によって相続されるようになりました。7代久慶ひさよしは、広島藩主浅野吉長の弟です。久慶は久忠が死去して1年足らずで死亡したため、あわてた重臣たちは久慶の死を隠し、浜松藩士で老中の職にあった松平信祝まつだいらのぶときの二男久貞を養子に迎え、その後、久忠の死を公表したと伝えられています。寛保3年(1743)、20才で8代を継いだ久貞は才気あふれ、井上並古を家老に登用し、新田開発、銀札発行等を行いました。藩校由学館や医師を養成する博済館もつくり積極的に藩政に取り組み、善政に勤めました。6代久忠公の時代に起こった天災のための巨額の借財も返済し、財政的にも余裕を持つようになりました。さらに愛妾あいしょうの織江は数人の子女を生み、嫡子届も済ませ順風満帆の状態が続きました。ところが、久貞は「父が老中であれば外様大名の養子でも」と政治的な野心を起こし「接待外交」を始めました。幕府要路に金品を送り、将軍や連枝の慶弔にも必要以上の金品を贈りました。朝鮮からの使節を接待するために、二万両もの金を使ったといいます。久貞は病の治療のためと称し岡藩に帰ろうとせず、江戸千家流川上不白の門に入って幕府の人々との交際を続けました。ところが天変地異が再び岡藩を襲いました。宝暦3年(1753)冷害のため不作となり、領民の再検見訴願騒動が起こりましたが、これは大事に至らず済みました。続いて5年(1755)に風水害、6年には火災、明和2年(1765)の城内火災、6年(1769)風雨地震、8年(1771)城下火災が城内に延焼し全焼しました。さらに干ばつや洪水が襲い、これら災害対策のため幕府から7千両を借金しました。明和元年(1764)から安永5年(1776)までの12年間、江戸に滞在していた久貞もついに帰藩しました。その時53歳でした。久貞は藩の立て直しを計りましたが、災害は続き、またも三千両の借り入れを余儀なくさせられました。そういった「不幸」の中、久貞は寛政2年(1790)67歳で没しました。