踏絵ふみえ

寛分11年(1671)8月22日、岡藩は長崎奉行から召喚されました。久恒が岡に襲封して6年目のことです。召喚を受けた理由は次のようなものでした。長崎に出向いた岡藩宗旨奉行拓植新右衛門が、長崎政所の宗旨係・河野権右衛門の勧めで、踏み切支丹仏2枚を拝借して持って帰りました。それを中川助之進、藤兵衛、平右衛門の3家老に見せたところ、「踏みえの数を増やせば、宗門改めの作業が上がるのではないか」ということになりました。鋳造術を持つ職人が多くいたことから、鉄砲鍛冶職人の井川九郎兵衛を頭として、踏絵を数十枚鋳造させました。これを知った長崎奉行が岡藩を召喚したもので、長崎奉行は「2枚の踏絵で宗門改めの効果を挙げるべきだ。さらに幕府に何の届出もなく、勝手に鋳造するとは…」と咎めました。幕府にも報告されたため、すでに隠居していた入山久清が心配し、在府の久恒公に急便を走らせました。と同時に、長崎に中川藤兵衛、拓植新右衛門、大河原久左衛門を派遣して、河野権右衛門に謝罪を申し入れたところ、権右衛門は持ってこさせた踏絵数十枚を政所の江戸次朗右衛門に調べてもらい、鋳仏師の祐佐に壊させました。公儀に達しているので、これで1件落着とは行きませんでした。在府の藩主久恒も公儀の役人に奔走するとともに、3家老と宗旨奉行の拓植新右衛門、熊田新左衛門に「出仕遠慮」を命じ、藩自体の自粛措置を講じました。岡藩の「努力」が認められ、やっと「一切不問に付す」の沙汰となりました。新春を目前にした12月2日、閉門中の3家老以下4人も赦免され、岡藩を揺るがした騒動は落着しました。