英雄寺牡丹(えいゆうじぼたん)

 朝鮮征伐の際持ちかえる

  1597年(慶長2年)、太閤秀吉は再度朝鮮征伐を命じました。渡海した藩祖中川秀成なかがわひでしげの軍は、加藤清正を先手として毛利、鍋島、土佐、池田の諸勢力に加わり進撃しましたが、文禄2年の役(1593年)の時のような勝利の快進撃はならず、苦戦の連続でありました。食糧にも悩み、現地の稲を刈り取るなどして飢えをしのぎました。ある時は、稲田の付近に潜んでいた敵兵から半弓などで反撃を受け、多くの犠牲者を出したりもしました。
 この時の中川軍については、いくつかの話が残っています。敵将・曽清官が置き忘れていった子供を引き取り育て、成長すると曽我姓を名乗らせ重臣の列に加えました。また進撃の途中、破却された寺院の庭に美しい花を咲かせていたのを見つけ、その牡丹ぼたん数株と碧雲寺へきうんじと書かれた寺額を永田、村治、郡の3人に持ち帰らせました。
 牡丹は「紫牡丹」と名付けられ、二の丸に植えられました。毎年、美しくその花びらを広げていましたが、1771年(明和8年)正月17日、城内が焼けた際、この牡丹も焼けてしまいました。ところがその後、再び新芽が出て文化年間には旧にも倍して繁茂し、西の丸にも分植しました。
 秀成公が城北の河畔に茶屋を建造中に逝去され、茶室予定を変更して御墳墓の地として、先の牡丹は城内からこの地に移植されました。二代藩主久盛公は寺院を建造し、持ちかえった寺額をそのままの寺号とし、この寺を龍護山碧雲寺と名付け、くしくも朝鮮から持ち帰った2品が1箇所に集まりました。
 さらに久盛公は、生母虎姫の父で外祖父にあたる佐久間玄蕃盛政の菩提ぼだいを弔うために、1644年(寛永21年)英雄寺を創立しました。初代住職に東巌寺の僧であった開室和尚をあてました。開室和尚は虎姫にゆかりのある紫牡丹をこの地に分植し、今はこの英雄寺だけが紫牡丹の伝統を伝えています。