1597年(慶長2年)、太閤秀吉は再度朝鮮征伐を命じました。渡海した藩祖
この時の中川軍については、いくつかの話が残っています。敵将・曽清官が置き忘れていった子供を引き取り育て、成長すると曽我姓を名乗らせ重臣の列に加えました。また進撃の途中、破却された寺院の庭に美しい花を咲かせていたのを見つけ、その
牡丹は「紫牡丹」と名付けられ、二の丸に植えられました。毎年、美しくその花びらを広げていましたが、1771年(明和8年)正月17日、城内が焼けた際、この牡丹も焼けてしまいました。ところがその後、再び新芽が出て文化年間には旧にも倍して繁茂し、西の丸にも分植しました。
秀成公が城北の河畔に茶屋を建造中に逝去され、茶室予定を変更して御墳墓の地として、先の牡丹は城内からこの地に移植されました。二代藩主久盛公は寺院を建造し、持ちかえった寺額をそのままの寺号とし、この寺を龍護山碧雲寺と名付け、くしくも朝鮮から持ち帰った2品が1箇所に集まりました。
さらに久盛公は、生母虎姫の父で外祖父にあたる佐久間玄蕃盛政の
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