文才・武道に長けた 広瀬 武夫ひろせたけお

 広瀬武夫は明治元年(1868)市内茶屋の辻で誕生しました。父は岡藩勤王党の一人で京洛の地で活躍し、飛騨高山で判事の時退任しました。母は中佐が幼児のとき死去し、祖母により弟妹と共に育ちました。10歳の時、西南の役{明治10年(1877)}の兵火を避けるため、弟妹の世話をして大野郡三本松に避難しました。その後父の赴任地・高山に行き海軍兵学校に進学しました。この頃講道館に学び昇段試合で7人抜きの快挙を遂げ2段を許されました。当時2段は専門家として通用する段位でした。 清水次郎長から将来名を成す勝力ある仕官として愛されたという話もあります。卒業後水雷艇長になりました。その後、駐露武官として働きましたがロシア高官の信頼も厚く、家庭に招かれ、ロマンも生まれたそうです。日本柔道の紹介披露や音曲の紹介等の語り草もあります。帰国の際、単身で厳寒のシベリアを橇で横断し、来るべき日に備えた話や、七世報国の詩、正気の歌の詩、航南日記による紀行文学、更に簡潔要を得、真情を伝えユーモアを交えて書かれた手紙は文学の粋であると言われます。旅順港閉塞作戦が成功したら海軍軍人を退官し、旅順総督の下に潜行し、無益の戦いを中止させたいと決意していたそうです。