59歳で他界した 田能村竹田たのむらちくでん
 
  田能村竹田
   
  「不死の吟」

    一昨死せず又昨日 (いっさくしせずしてまたさくじつ)
    昨日死せず又今日 (さくじつしせずしてまたこんにち)
    今日死せず又明日 (こんにちしせずしてまたみょうにち)
    許く若く死せざること日又日 (かくのごとくしせざることひまたひ)
    騰々々として死せず (とうとうとしてしせず)
    踏み尽くす (ふみつくす)
    今年の三百六十日 (こんねんのさんびゃくろくじゅうにち)
    又明年の三百六十日 (またみょうねんのさんびゃくろくじゅうにち)
    竹田生 (ちくでんせい)
    不死の吟 (ふしのぎん)
      

南画家田能村竹田の絶筆です。見事としか他に言いようがありません。旅先で病に倒れ、死ぬと知ったとき、ぐいと筆を握り、一気に書いたと言われています。読んで字のごとく、自分は決して死なぬ! と言い放っています。すでに冥府に入らんとする時、こういう激越な詩を墨痕ぼっこん鮮やかに書ける人物は、そうざらにはいません。天保6年(1835)竹田は国元を後に旅に出ます。途上6月、大阪の大塩平八郎を訪れ、大いに談論風発、楽しい一刻を過ごします。続いて、大阪近郊吹田村の代官・井内右門を訪れ、しばらく逗留しました。その時高熱に襲われ病に臥し、大阪の藩邸に運ばれました。国元から急きょ駆けつけた一人息子の医者・如仙にみとられて、8月29日旅先で客死しました。日本の近世南画史の代表的な画家として、池大雅、与謝蕪村、浦上玉堂らと並び称される田能村竹田もついに死にました。生涯厚い友情に結ばれ、互いに声援を送りあった頼山陽も3年前に没し、南画の隆盛を築いた錚々そうそうたる画家たちも、ことごとくこの世を去っていました。竹田の死は、日本南画最後の大輪の花の落下に例えられます。竹田死後、幕末にかけて、南画は大流行し、全国に多数の文人画家が続出しましたが、高徳な精神はもぬけの殻の、堕落した売画の徒だけが、この世を謳歌しました。日本の南画は、田能村竹田とともに終わりました。竹田は、安永6年(1777)豊後国竹田村(大分県竹田市)に生まれました。田能村家は代々岡藩の藩医の家柄で、父・碩庵も医者でした。竹田は3人兄弟の末子で、幼名は磯吉と呼んでいました。生まれつきデリケートな神経の子供で、しかも先天的な若年性糖尿病という難病をかかえて、とても病弱でした。12歳のころ、その病が眼疾となってあらわれ、極度の近視になりました。18歳の時、兄と母が相次いで死に、27歳のとき、父・碩庵も死にました。田能村家は家業の藩医を廃業して、竹田も藩に仕えますが、藩の仕事は面白くなく、次第に詩や儒学そして絵の勉強に精励するようになります。竹田29歳の時、眼病治療のため京都にのぼりますが、眼の治療はそっちのけで、詩と絵の勉強に寝食を忘れて没頭します。「傘や下駄もないので、雨天には外出できません。夕食をぬいて2食にして雑費を省き、わずか百文の髪結銭まで倹約して本を買っています。一度勉学に入ったら、倒れるまでやってみせる。それにしても貧乏とは、口惜しいもので御座候」と国元の知人に書き送っています。文化8年(1811)、続く9年、竹田35歳から36歳の時、豊後豊前で農民4千人が立ち上がった大規模な農民一揆が起きました。この時、竹田は2度も藩主中川公に建白書を提出しています。竹田の内に秘めた温かい人間性と、権力をものともしないたがねのような正義感が赫然かくぜんと噴出しました。「武士、庄屋、豪農、富商共が堕落頽廃たいはいしているから一揆は起こったのだ。武士は刀を2本さえさしていれば、生まれながらに自分は偉いと思い上がって、百姓を馬鹿にしている。藩主はお茶ばかり呑んで、学問を軽んじ、利益ばかり考えている。」 と激しい言葉で武士を批判しています。首が飛ばなかったのが不思議です。このあたりから、竹田は隠遁いんとんのことばかり考えるようになります。「いやな奴らが幅をきかせて大きな顔をしている。要領のよい、くだらない男たちが高い地位について、自分の利益ばかりはかっている。せめて低い地位で、目立たないようにしていたい」 と友人に心情を吐露しています。もうすっかり俗世がいやになっていました。37歳で隠居しました。これからいわゆる官職を捨て、山林に隠れ、俗を離れる逸人隠士的文人の本領を発揮し始めます。頼山陽はじめ、一流の知識人、文人墨客との交友も盛んになり、51歳の時長崎に旅し、これを機に一気に竹田の画法は完成に向かいます。これから没するまでの9年間、圧倒的な仕事をし始めます。「船窓小戯図」(1829年)53歳、「亦々一楽帖」(1830年)54歳、「歳寒三友雙鶴図」(1831年)55歳、「暗香疎影図」(1831年)55歳、「梅花書屋図」(1832年)56歳、――以上重要文化財。「驢背尋梅図」(1833年)57歳――重要美術品。続々と歴史に残る名作が波濤のごとく描かれました。竹田は50歳に入るや、むちを入れ、そのままえずほうけずぴんぴんしたまま、一直線にあの世まで突っ走りました。病弱の命の残りを正確に予知し、無駄な命は、自らの手で見事に切り捨てました。