１　　湯布院（Ｄ）
	　２　　生涯教育センター前
	　３　　新聞の見出し
	　４　　明和大学・外観
	　５　　同・廊下
	　６　　理事長室・内
	　７　　書斎（夕景）
	　８　　小料理屋「もとはし」・外（Ｎ）
	　９　　同・座敷
	１０　　同・廊下
	１１　　同・外
	１２　　夜の道
	１３　　大分空港（Ｄ）
	１４　　ジェット機・外
	１５　　空港ビル内
	１６　　空港ビルの部屋
	１７　　由布院盆地
	１８　　同・車内
	１９　　湯布院駅･ホーム
	２０　　湯布院駅･表
	２１　　湯布院の森道
	２２　　珠の湯旅館
	２３　　同・部屋
	２４　　高梨旅館･門
	２５　　同･玄関
	２６　　同・座敷（竜太郎の部屋）
	２７　　同・座敷Ａ
	２８　　座敷B
	２９　　珠の湯旅館・部屋（Ｎ）
	３０　　金鱗湖畔（朝）
	３１　　高梨旅館・門外
	３２　　同・玄関
	３３　　座敷Ｃ
	３４　　座敷Ａ
	３５　　直人たちの部屋
	３６　　座敷Ｂ
	３７　　座敷
	３８　　湯布院夜景
	３９　　座敷Ｃ
	４０　　隣室
	４１　　湯布院（朝）
	４２　　高梨旅館・玄関
	４３　　玄関内
	４４　　座敷
	４５　　生涯教育ｾﾝﾀｰのビル前
	４６　　熊野磨崖仏（翌日・Ｄ）
	４７　　富貴寺
	４８　　両子（ふたご）寺
	４９　　川中不動
	５０　　高梨家・母屋の門（夕景）
	５１　　座敷
	５２　　天井桟敷
	５３　　高梨家・母屋の門（朝）
	５４　　同・廊下
	５５　　同・門前
	５６　　座敷
	５７　　同・廊下
	５８　　座敷
	５９　　大分署
	６０　　同・刑事課
	６１　　（回想）天井桟敷
	６２　　刑事課
	６３　　母屋の玄関
      
      	６４　　ＪＲ竹田駅（豊肥本線）
      
      	６５　　竹田市内・滝廉太郎記念館からトンネルへ
      
      	６６　　同・岡城阯
      
      	６７　　同・見晴台


　＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿

      
      	６８ 　旅館

			   純和風の落ち着いた部屋。夕食の卓に向かう直人と麻子。
			   仲居は下がった後。

      
      		麻子　　「田楽にハモ……名物料理かしら、おいしそう」

				直人がビールを注いでやり、ふたり飲む。

      
      		麻子　　「ね、どうして気が変ったの？　高梨のお宅に帰ってもよろしかったのに」
      
      		直人　　「せっかく春香さんが雄一君を預かってくれたんだ。大木桂子さんもついてることだし、
			　そこへお前が帰っていって雄一君を甘やかす事はないだろう。早く早く春香さんに
			　壊いてもらわなくちゃ」
      
      		麻子　　「そういうものかしら……私、やはり帰りたかったナ」

      
      				黙り込む。直人はビールを飲む。


	６９ 　旅館・一室（朝）

				下駄履きで庭に立つ直人。縁側で茶を淹れる麻子。

      
      		直人　　「今日は阿蘇まで足を伸ばしてみるか」
      
      		麻子　　「ええ……でも早めに湯布院へ戻りたいわ」

				直人は縁側に座り、茶を啜る。


      
      		直人　　「周遊券の期限もあと三日だ。講演予定があるし、依頼原稿も書かなくてはならない。
			雄一の問題がそれまでに決着すればいいが」

				ラジオから大分地方の天気予報が流れていたが、

      
      		ラジオ　「……ちょっとお待ち下さい……失礼しました。事件の速報が入りました。
			今朝六時ごろ、湯布院町の由布院神社で首を吊った女性の遺体が
			発見されました。女性の身元を調べたところ、高梨竜太郎さん方のお手伝いで、
			大木桂子さん、五十歳とわかりました」

				麻子は愕然とし、ラジオの前に行く。直人も棒立ち。

		ラジオ　「大木さんは神社の境内の木の枝で首を吊っており、発見されたときは枝が折れて
				地面に倒れていたということです。死因に不信な箇所もあり、警察は
				捜査を進めております。繰り返します。……」
      
      		直人　　「おかしいな。麻子だって、そう言ったろう。昨日、ほんの少し前に別れた大木桂子が、
				竹田にいるなんておかしい」
      
      		麻子　　「あれは人違いだったんですよ」
      
      		直人　　「だからどうだっていうんだ」

　＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿



	７０　　高梨家・母屋の玄関
	７１　　応接室
	７２　　座敷Ｂ
	７３　　応接室
	７４　　廊下
	７５　　座敷
	７６　　座敷内
	７７　　座敷Ｂの前の廊下
	７８　　座敷
	７９　　大分市警の部屋
	８０　　座敷（Ｎ）
	８１　　もとはし・坪庭（Ｎ）
	８２　　座敷（Ｎ）
	８３　　高梨家・座敷（Ｎ）
	８４　　座敷Ｂ
	８５　　高梨家の玄関
	８６　　亀の谷山荘・入り口
	８７　　亀の谷山荘のロビー
	８８　　亀の谷山荘の玄関
	８９　　亀の谷山荘の一室（Ｎ）
	９０　　金鱗湖のそば（早朝）
	９１　　亀の谷山荘・食堂（朝）
	９２　　湯布院警察署・捜査本部・取調室
	９３　　高梨家・座敷Ｂの前廊下
	９４　　高梨家・座敷Ｂ
	９５　　廊下（朝）
	９６　　亀の谷山荘・表
	９７　　同・ロビー・喫茶コーナー
	９８　　金鱗湖・現場
	９９ 　 金鱗湖・現場の林のなか（イメージ場面Ｎ)
     １００　　金鱗湖・水辺（イメージ場面Ｎ）
     １０１　　金鱗湖・もとの現場
     １０２　　馬車乗馬（珠の湯旅館近く）
     １０３　　馬車が行く
     １０４　　由布院駅前通り
     １０５　　高梨家・座敷Ｂ
     １０６　　由布院駅前
     １０７　　走るリゾート・エクスプレス
      
           １０８　　大分空港を離陸するジェット機　　　　

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（終）
      
      

      
　　　１　湯布院
			金鱗湖。
			高梨春香２４歳と尾川義久３０歳が湖畔を歩いている。
	春　香「こうして金鱗湖のそばを歩いているでしょう。この気持ちが好きなの……由布岳を見上げるでしょう。好きなの。好
		きになろうと思ったことがないのに好きなの、故郷と親ってそうゆうものなの｣
	義　久「人間ってそうゆうもんじゃないか、好きになろうと思ってから好きになるんじゃなくって、気がついてみたら好きに
		なっているんだ……｣
			二人が顔見合わせて笑顔になる。ちょっと照れくさい。二人池のほとりを歩いていく。
　　　２　生涯教育センター前
			工事途中のビル前。
	義　久「この生涯教育センターにしたってさ、町のためを思えばこそなんだ。それが金が足りなくなって工事を中断するなん
		て口惜しいよな｣
				×	×	×
			金網の張られた白い建物。
			｢敷地内立入禁止｣の貼札。
				×	×	×
	義　久「湯布院は映画祭でもジャズフェスティバルにしてもうまくやってきたんだ。それはね、金もうけを考えなかったから
		だよ。ところがこの建物はこれに便乗して金もうけをしようという人間がいたから失敗したんじゃないか？｣
	春　香「まだ失敗したとはいえないんじゃないの？｣
	義　久「どうかな｣
			二人は建物の中に入って行く。
	義　久「しかしこれだけの建物を放置してるんだからな。行政もどうかしてるよ｣
			二人ははなればなれになっていたが、春香の側の中空にふわりと力ない物体がゆらぐ。
			春香が驚いた。
	春　香「誰か居るわ｣
			義久が足早に近づいてくる。
			と、春香の悲鳴。
			二階の手すりからロープを首にまきつけてぶらさがっているのは背広服の男である。
			悲鳴をあげた春香が義久にしがみつく。
			救急車のサイレンが走る。続いてパトカーが複数サイレンを鳴らして走る。
　　　３　新聞の見出し
			｢生涯教育センター予定地に首吊り死体｣
				×	×	×
			｢自殺!?　他殺!?
			生涯教育センター予定地の首吊り死体｣
				×	×	×
			｢首吊り死体は相羽文部事務次官の個人秘書｣
　　　４　明和大学・外観
　　　５　同・廊下
			廊下の角を曲って和泉直人教授がやって来る。
			ドアをノックする。
			｢理事長室｣である。
　　　６　理事長室・内
	理事長「これは和泉教授｣
	直　人「……｣
	理事長「どうなさいました｣
	直　人「私、この大学で法律を講義しております｣
			理事長は一時きょとんとして、笑い出す。
	理事長「和泉先生、冗談にもなりませんね｣
	直　人「冗談というわけじゃありません｣
	理事長「……｣
	直　人「新入生に法律の入門を教えるとき、口ぐせのように、こういう言葉ではじめることにしております。口ぐせというの
		は、真底自分でそう思っているからです｣
	理事長「和泉先生、もって廻らないで、その言葉と言うのを教えてください｣
	直　人「法律は……法律は最低の道徳である｣
	理事長「法律は……最低の道徳である。成る程……念のためにもっと噛み砕いて分り易くお話頂けませんか｣
	直　人「とんでもありません。明和大学の理事長ともあろうお方に新入生と同じ講義をするわけにはいかないじゃありません
		か｣
	理事長「そうおっしゃらずに。私は新入生と同じように謙虚に聞く耳を持っているつもりですよ｣
	直　人「では端的に申しあげます」
			小さい間。
	直　人「明和大学には九州に進出する九州キャンパス計画というものがあると承知しております。この計画を今後撤回し白紙
		に戻して頂きたい｣
	理事長「和泉先生、そのことは教授が口をはさむことではありません。学校の経営というものは、理事会の仕事です。
	直　人「法律が最低の道徳だと申しあげたのは、その理事会が道徳を踏みはずした不正を犯そうとしているのではないかと…
		…思われるからです｣
	理事長「和泉先生、何をもって不正とおっしゃるのですか｣
			直人が書類袋を差し出す。
			中にあるのは前シーンにある新聞の見出しの切り抜きである。前シーンでは三枚だが、ここではもっと沢山
			の枚数がある。
	直　人「ここの、何処に不正があるのかと理事長はおっしゃるのかもしれません。だから敢えて私は申しあげたのです……こ
		の変死体発見の現場になった『生涯教育センター』は、本来不正というものがありません。志はあくまでも清潔で高
		邁なものです。不正があったとしたら、それは……この相羽事務次官が定年後の天下り先を考えたことです。そのた
		めに、九州への進出を考えていた明和大学の理事会が裏金を使って『生涯教育センター』を設立しようとしたことで
		す。しかし元々清潔で高邁な事業ですから不正などということはどこをつついても出てこないのです｣理事長は背を向
		けている。
	直　人「人が犯罪に走る道筋というのはえてしてこういうものです。みんなが自分の持ち場を守るために一生懸命働いた結果
		がそういうことになってしまうのです。私は学生たちに法にたずさわる人間の優しさということを屡話したきました
		。犯罪の動機を追及するあまり冷たい目でみるものですが、優しい目でみつめてみると、犯罪というのは極く日常的
		なものです。罪をにくんで人を憎まずというのがこのことです｣
	理事長「先生つまり私に講義をしているわけですな｣
	直　人「そうです。今日限り、明和大の九州キャンパス計画を白紙に還して頂きたい｣
	理事長「お断りすると言ったら、どうなさいます｣
	直　人「辞表を書きます｣
	理事長「もう一度引きとめたら｣
	直　人「さき程も申しあげた通り、法律を学ぶ者にとっては死を選ぶようなものです｣
　　　７　書斎（夕景）
			辞表を書く直人｢辞職願｣。
			茶を持って妻の麻子が入ってくる。
			直人は手もとをかくそうとはしない。
	麻　子「（見ていたが）やめるんですか｣
	直　人「うん｣
			麻子は出て行こうとする。
	直　人「おい｣
	麻　子「はい｣
	直　人「いいのか？｣
	麻　子「何がですか？｣
	直　人「なぜ辞めるのかと、聞かないのか？｣
	麻　子「一身上の都合によりと、書いてあるじゃありませんか｣
	直　人「一身上の都合で、麻子は納得できるのか？｣
	麻　子「いいえ｣
	直　人「じゃどうして聞かないんだ｣
	麻　子「あなたは自分で、腹を決めてるんでしょ？｣
	直　人「うん｣
	麻　子「それならそれでいいじゃありませんか｣
			麻子は出て行く。不服そうな直人。
　　　８　小料理屋｢もとはし｣・外
			予約の表に、
			｢和泉直人教授慰労会｣とある。
			直人と麻子が入ってくる。
			ちょうど店の内を通りかかった仲居のみち子が、
	みち子「先生、いらっしゃいませ｣
	直　人「ああ。もう誰か来てるかな｣
	みち子「一人おみえになってます｣
	直　人「こりゃいかんな俺がいちばんに来なきゃならなかったんだ。部屋は何処かな｣
	みち子「ご案内します。あ、こちら奥様ですね｣
	麻　子「麻子です｣
	直　人「この店の仲居さんで｣
	みち子「渡辺と申します。こちらへどうぞ｣
			奥へ案内しようとすると、
	直　人「おお、由美ちゃん｣
	由　美「この年になってユミちゃんでもないわ｣
	直　人「照れる年でもないだろう。麻子この人が同級生でこのもとはしの店のおかみさん｣
	麻　子「お名前はうかがっております。いつもお世話になっております｣
	直　人「今夜の会もこの人が段取りしてくれたんだよ｣
	由　美「法学部出身の小料理屋のおかみくらいいると便利なもんでしょ？｣
			座敷に着いている。
　　　９　同・座敷
	田　中「おお来たか｣
	直　人「遅れてすまん｣
	田　中「いや遅れちゃいないよ。俺が早く着いてしまったんだ｣
			といううちにどやどやと人数がふえてくる。
				×	×	×
			二人の仲居にみち子もまじって小料理やビールを運んで行く。
	田　中「というようないきさつで理事長と衝突したというから、まァそれもいいだろうとなって、今日の慰労会という名称に
		なったわけだ。まァよく働いたことではあるし、娘さんも嫁にやった。ここらで一休みさせようと、もとはしのおか
		みと、そういう話になって九州旅行をさせることにした。勿論、奥さんといっしょにだ。もとはしは手廻しがいいか
		ら、もう飛行機の切符を用意した。俺たち八人のプレゼントとして贈呈する。和泉｣直人と麻子が立ってその切符を受
		取る。
			八人の拍手。廊下に仲居が三人、これも拍手している。
	直　人「どうもありがとう。演説はこの前理事長相手にやってきたから、今日はご好意に甘えて頭を冷やしてくるということ
		にする｣
			又拍手。
　　１０　同・廊下
			二人の仲居とみち子が忙しそうにすれちがって行く。
　　１１　同・外
			直人がごきげんで握手し、別れていく。
			最後は由美である。握手して，麻子は会釈して、直人と麻子は連れ立って去って行く。
　　１２　夜の道
			直人と麻子が行く。その後から男の手が｢おい｣振返ると、田中である。
	田　中「もう一つ受取ってもらいたいものがあった｣
	直　人「？｣
			田中はポケットから封書を出す。
			｢辞職願｣
			直人の書いたそのものである。
	直　人「おい！｣
		田中｢今日は演説はするな。頭を冷やして来い｣
			直人が反論しようとするが、田中はもう知らんぷりで去って行く。
	直　人「おい｣
			田中は振返らない。
　　１３　大分空港
			ジェット機が着陸する。
			｢大分空港｣
　　１４　ジェット機・外
			機内から乗客たちが降りる。
			その中に直人と麻子がいる。
　　１５　空港ビル内
			アナウンス。
	女の声「明和大学の和泉直人様、お子さまがお待ちでございます。至急全日空カウンターまでおいで下さい｣
	直　人「お子様？郷子のことかい？｣
	麻　子「郷子は北海道でしょう｣
	直　人「なんかの間違いだろう。無視すればいい｣
			行こうとする。
	女の声「明和大学の和泉直人さま、明和大学の和泉直人さま｣
	直　人「くどいな、ちょっと行ってみるか｣
　　１６　空港ビルの部屋
			ドアをあけて直人と麻子が入ってくる。
			５、６歳の男の子がいる。リュックを背負った端正な顔立ちの子が行儀よく座っている。
			搭乗券を握りしめている。
	直　人「明和大学の和泉直人です｣
			若い女性事務員が、
	　女　「（ほっとしたように）お待ちしておりました（男の子に）よかったわね、お父様に会えて｣
	直　人「勝手にそんなこと決められちゃ困るよ。私はこんな子供みたこともない｣
	　女　「でも搭乗者名簿には、同伴者としまして、父和泉直人とございます｣
	直　人「とすると（麻子に）この子の母親は麻子だ。君だ｣
	麻　子「冗談を言ってる場合じゃないわ。どんな事情があるのか知らないけど、この子の身になってごらんなさいよ｣
			小さい間
	麻　子「（直人を指差して）この人が、あなたのお父さんなの？｣
			子供は直人の顔をみつめていたが、かぶりを振る。
	子　供「お父さんは死んじゃったの｣
	麻　子「え？｣
	直　人「？｣
	　女　「？｣
			男の子は立ち上がってリュックをおろすと、中から一通の封書を取り出す。
			｢和泉直人先生｣と表書。
			（誰とも知れぬ女の声が文面をなぞる）
	手　紙「和泉直人先生。失礼なお願いで本当に申し訳ありません。でも私には方法が思いつきませんでした。弁護士さんにお
		願いすると沢山のお金が必要でしょう。私がお名前を知っている法律の大家は和泉先生だけです。ご迷惑は重々承知
		しておりますが、こんな方法をとらせて頂きました。きっと和泉先生ならお願いを聞いてくださると存じます。どう
		かこの子を湯布院まで連れて行ってやって下さい｣
			直人は手紙を麻子に渡す。麻子が読んでいる。
	直　人「要するに，この子を湯布院町の高梨竜太郎という家に連れて行って欲しいという依頼なんだ｣
			麻子は手紙を女に見せる。
	　女　「そうですか。それではこちらで羽田まで送り返しまして｣
	麻　子「いえ、それは可哀そうよ。ここは大分空港でしょう。小さな胸がつぶれるようにどきどきしながら、せっかく大分ま
		できたのに、又羽田へ返されてしまうなんて。（直人に）ここまできたんだから湯布院まで届けましょうよ｣
	直　人「僕たちは別府へ行くんだぞ｣
	麻　子「湯布院は遠くないと知ってるくせに、一度はそう言ってみないと気がすまないのね｣
	直　人「……｣
	麻　子「お名前は何て言うの？｣
	雄　一「雄一。高梨雄一｣
	麻　子「お年は？｣
	雄　一「六歳｣
	麻　子「高梨雄一君、六歳ね。いいわ、連れてってあげる｣
	直　人「おい｣
	麻　子「（雄一に）大丈夫よ｣
			小さい間。
			雄一は又リュックから封書を取り出して麻子に渡す。
			中に、
			｢湯布院温泉　珠の湯旅館　お二人さまご一泊｣のクーポンが入っている。
			麻子がにこりとしてやる。
			雄一がはじめて笑顔をみせる。
　　１７　由布院盆地
			由布岳目指し、走る『ゆふいんの森号』高原リゾートエクスプレス。
　　１８　同・車内
			先頭車に乗っている直人、麻子、雄一。
			正面窓は大きくて見晴らしがよい。由布岳がぐんぐん迫る。
			雄一は目を見開いて、麻子に前を指差してみせる。
	麻　子「素敵ね、クラシックな外国の列車みたい｣
		雄一はリュックを開けておやつを取り出し、麻子に勧める。
	麻　子「あらっ、ありがとう……｣　
			食べる。
	麻　子「それにしても雄一君のお母さんはどういうつもりかしら｣
	直　人「いけば分る。それより俺たちの九州旅行をどこで知ったのかな。九州へ行くというのは『もとはし』でわいわいやっ
		てるうちにいきなり決まったのだからね。知ってるのはあそこに集まってくれた八人の仲間だけだ。その中に、あの
		子の母親に該当するような女性はもちろん、主婦でもいない｣
　　１９　由布院駅・ホーム
			ゆふいんの森号が着く。降り立つ直人たち。ホームに白い柱。
			『標高　四百五十三メートル』
　　２０　由布院駅・表
			（メディチ家礼拝堂を模した）ガラス張りの塔屋根を乗せた駅舎。
			直人たち三人がバッグを抱えて降りて来る。
	雄　一「あれ！｣
			麻子に指差してみせる。駅前広場に馬車が客待ち。
			直人が係員に聞いて、三人で乗り込む。
			タクシー乗場の初老の運転手Ａが、唖然として三人を見ている。
			乗ろうとした客の老婆も見る。
			馬車に乗った麻子は雄一を間にしてベンチに座る。
			直人が運転手Ａたちの視線に気づく。
			Ａと老婆は直人と視線が合うやあわてて目をそらす。
			うさんくさい。
　　２１　由布院の森道
			緑のなかをとことこ走る。
　　２２　珠の湯旅館
			離れになっている部屋へ、静かな庭を女将（３６）が通って行く。
　　２３　同・部屋
			女将が入ってくる。
	女　将「ごめん下さい。当館の女将でございます。ようこそおいで下さいました｣
			と言ってから、ふっと雄一に目をやる。口を噤んでしまう、が、直人の視線に気づく。
	女　将「失礼いたしました。あまりよく似ていたものですから。お孫さんでいらっしゃいますか？｣
	直　人「いや、ひょんなことでこの子を届けることになりまして、高梨竜太郎さんというお宅です｣
	女　将「（驚き）は？｣
			直人が麻子に目配せする。
	麻　子「（納得して）雄一君ちょっと外を散歩してみましょう（二人が出て行く）｣
	直　人「よく似てるとおっしゃいました。誰にですか？｣
	女　将「高梨弘一さんという方です。これからお届けになるという高梨竜太郎さんの長男です。私は小学校から中学までいっ
		しょの幼馴染ですが……弘一さんは東京で大学を終わりましてそのまま東京で就職していたんです。それが四年程前
		に亡くなりまして、高梨家は誰が相続するのか、町でも噂になるようなことです｣直　人「噂になる程の家なのですか
		？｣
	女　将「はい。私の口からこんなことを言うのもなんですが高梨さんは今由布院で一、二という高級旅館でして、元々は、こ
		のあたりの大名だった大友宗麟の代からの大庄屋だったそうで。御当主の竜太郎さんは二十何代かにあたるそうです
		。旅館だけではなくて、大分や別府にも会社がありますから財産は何十億になりますか。ところが御当主の竜太郎さ
		んがこの頃めっきり衰えられまして｣
	直　人「なる程、それで町の人たちも気が気じゃなくて噂になるということですか｣
	女　将「はい｣
	直　人「そうか、駅前でジロジロ見られてたには、そのせいか｣
　　２４　高梨旅館・門
			竹西（４５）とその妻夏美（３８）が来て、やや距離のある玄関を入って行くのが見える。
　　２５　同・玄関
	宇田川（６０くらい）「これは竹西さま。夏美さま。皆さまおそろいでございます｣
	夏　美「そう。秋野もきてるの｣
	宇田川「はい。ご主人の馬場さまも、叔父上の政次郎さまも｣
	夏　美「私たちを待ってくれたの？｣
	宇田川「いえ、旦那さまが今お休みになっておりまして｣
	夏　美「そう｣
　　２６　同・座敷（竜太郎の部屋）
			竜太郎（７０ぐらい）眠っている。
			かたわらで点滴を見ている大木桂子（５０位）と若いお手伝い上森愛子。
　　２７　同・座敷Ａ
			宇田川の案内で夏美と竹西が入ってくる。
	宇田川「夏美さまと竹西さまがお着きになりました｣
			障子が開いて、座敷内に竜太郎の弟政次郎、竜太郎の次女、秋野と夫の馬場、三女の春香。
	政次郎「遅かったじゃないか｣
			空けてあった上座に夏美夫婦が座る。
	春　香「お姉さんいらっしゃい｣
	秋　野「お義兄さんご無沙汰してます｣
			（高梨家の人物たちの言葉の訛りにこだわるならば夫婦の出身地である。
			竜太郎、政次郎は大分弁、三姉妹は共通語、竹西は大阪弁、馬場は東京弁。
			大木桂子も大分弁といったところだろう）
	竹　西「こちらこそ、秋野さんもお元気そうで何より｣
	馬　場「いや、竹西さんこそお元気そうで｣
	夏　美「秋野｣
	秋　野「はい｣
	夏　美「私がここへ来るまでにお父さんとは何も話さなかったのね｣
	秋　野「それどころか、先程、ドクターが帰ったばかりよ｣
	夏　美「春香はどうなの？｣
	春　香「私も話してません｣
	夏　美「そうは言っても春香ひとりがまだ結婚していなくて、ここでおとうさんのそばにいるんだから、何か話したんじゃな
		いの？｣
	春　香「ええ、そりゃ朝晩の挨拶とか必要なことは話しますけど｣
	夏　美「そうじゃないわ。遺産、遺産のことよ｣
	春　香「お姉さん、そんなこと。私はまだまだお父さんに元気でいて欲しいと思ってるのに｣
	夏　美「娘なら誰だってそう思ってるわよ｣
	春　香「……｣
	夏　美「そうは言ってもお父さんの身の上にいつ何が起こるか分らないのよ。そこのろころを目をつむってひとりいい子にな
		ろうとしてもだめ。急場になってあわてるよりも今話し合っておく方がいいのよ｣
	馬　場「お義姉さん。そういうことは、法律にまかせておく方がいいんじゃありませんか？｣
	夏　美「え？　法律｣
	馬　場「そう、法律です。私だってルポライターをやってますから、その程度の法律は分ります。今度のことはあくまでも常
		識的な方がいいんです。｣
	夏　美「常識的、どういうこと？｣
	馬　場「遺産というのは本来、配偶者が二分の一、残りの二分の一を子供たちが当分に分けるというのが常識です。今度の場
		合高梨家は奥さんが既に亡くなっているわけですから、遺産は子供たち、つまり夏美、秋野、春香……三人の娘で等
		分に分配する。これが常識です｣
	政次郎「常識といっても家それぞれで、私も歯に衣着せず言うが、その常識に従えば私は当主の弟だから一銭も金を受け取れ
		んことになる。しかし兄の竜太郎がここを相続する時、今のような時代じゃなかったから当然のように長男の竜太郎
		が相続して、私はまとまった金というものをもらわなかった。もともと私だって遺産をもらう権利があるんだ｣竹　西
		「金というのはそんな軽はずみのものじゃありません。私のように会社をやっていれば、金はただ金もうけじゃなく
		、従業員のすべての家族を私が養っているのです｣
	政次郎「竹西さん、何を怒ってるんですか。それとこれとは違う話でしょう｣
	竹　西「あなたが軽はずみだからだ。金というのはそんなに手軽なものじゃない！｣
			その時障子が開いて、桂子が姿を見せる。
	桂　子「旦那さまがおめざめでございます｣
　　２８　座敷Ｂ
			竜太郎の部屋。
			竜太郎が上半身起こしている。
			前シーンの人物たちが席に座っている。
			衰えてはいるが竜太郎の眼光が鋭い。
	竜太郎「皆、集まってもらったのは、凡そ察しがついているだろうが財産のことだ。高梨旅館は……春香が相続する。その他
		、動産不動産合せて二十億くらいになるが、株や土地は評価が変動するとしなければならない。詳しいことは宇田川
		に教えてある｣
	夏　美「お父さん、旅館を春香が相続するとなると、財産の中でも、他のものとくらべものにならないくらいの額になります｣
	竜太郎「旅館は、財産とは言っても金銭のように自由になるもんじゃない。財産とはいってもそれを運用するということで、		財産のようでもあり、ないにも等しい。だから姉二人、旅館の春香の後見人だと考えればいいじゃないか｣
	夏　美「……｣
	秋　野「……｣
	竜太郎「政次郎に聞きたいことがある｣
	政次郎「はい｣
	竜太郎「生涯教育センター事業の方はまだやっておるのか｣
	政次郎「国か県の手で法人にしてもらうよう、働きかけています。高梨家の名を残すのにも続けなきゃならないと思うが｣
	竜太郎「家の名前はどうでもいい。しかし前次官の相羽という男はイカサマと聞いたが、どうだ｣
	政次郎「関わらんことにしました｣
	竜太郎「政治から手をひけ。生涯教育センターなちゅうものは、政治家の金集めの看板じゃ。地道な仕事をするというなら…
		…｣
			とつぜん苦しみに襲われ、つっ伏してしまう。桂子が介抱し、
			宇田川の合図でみな部屋から出る。政次郎はぐずぐずしながら最後に去る。
　　２９　珠の湯旅館・部屋（Ｎ）
			雄一は眠っている。
			直人は縁側の椅子で水割を手にしている。
	直　人「若女将の話によれば、雄一は高梨竜太郎の孫……ということになるのかな｣
	麻　子「相続問題で揉めてるさなかに、幼い子をたたひとりで送り込むなんて、どうなっちゃうのかしら｣
			麻子は雄一の布団を直してやる。
　　３０　金鱗湖畔（朝）
			直人、麻子、雄一が行く。
　　３１　高梨旅館・門外
			三人が来る。
			堂々たる門構えである。
　　３２　同・玄関
	直　人「東京から来た和泉直人というものですが、高梨竜太郎さんにお目にかかりたいのです。｣
	春　香「竜太郎は私の父ですが只今病気で臥っておりますので、御用件をうけたまわりたいのですが｣
	直　人「そうですが……実は、この子を高梨家に連れて行って欲しいと東京で頼まれてきました｣
			直人の背にかくれるようにしていた雄一を麻子がそっと押し出す。
			その雄一を見た時春香の表情が変わる。暫くは口もきけない。
	春　香「少々お待ち下さい｣
			あわただしく奥へ入って行ったと思うと、やがて夏美と秋野を伴って戻ってくる。
	春　香「姉の夏見と秋野です。私は三女の春香と申します｣
			姉二人これも暫く言葉もなく雄一をみつめている。
	夏　美「東京の誰に頼まれて、この子を連れてきたんですか｣
	直　人「さアそれが何処の誰とわかりません。恐らくは母親だろうと思います」
			雄一がものも言わずリュックをおろすと、一通の封書を取り出して直人にわたす。
			その封書――戸籍謄本である。
			「東京都港区××町×丁目×番地××みち子　長男雄一」
			×は読めないようにマジックで塗りつぶした部分である。
			そして父親の身分事項欄に「高梨弘一」が雄一を認知した旨の記載がある。
			麻子ものぞきこんでいたが、思わずいとおしそうに雄一の頭に手を置く。
			直人は春香たちに手渡す。姉妹三人が見ている。
	直　人「ということのようです。私も今初めて知ったのですが」
			姉妹はひそひそと話していたが、
	夏　美「とにかくおあがり下さい」
　　３３　座敷Ｃ
			直人たち三人が座っている。
			お茶は出てはいる。
　　３４　座敷Ａ
			宇田川の加わった男四人、姉妹三人ひそひそと話している。
			そして七人ぞろぞろと。
　　３５　直人たちの部屋
			外で、
	春　香「失礼します」
			障子が開いて、
	春　香「父の竜太郎は今眠っておりまして、こちらは父の弟で政次郎。姉の主人で竹西。下の姉の主人で馬場と申します」
	政次郎「お名前を聞いておりませなんだ」
			直人は名刺を出す。
	直　人「和泉直人といいます」
	政次郎「ほー、明和大学法学部教授。法律の先生ということですな」
	直　人「そうゆうことになります」
	政次郎「つまり、この男の子の後見人ということですか？」
	直人　「冗談じゃありません。私はこの子の母親と言葉を交わしたこともなければ、顔を見たこともありません。後見人どこ		ろか、この子をあなたたちに渡せば私はもう何の関係もない他人ですよ。いやもともと何の関係もない他人です」
	竹　西「どうもご迷惑をおかけしました。つきましては、私共のほんの気持ちです。受取っていただけると私共も助かります
		」
			封筒を出す。	
			直人が中のものを引き出す。――ほんの五万円くらいらしい。
			直人が無言で押し返す。
	竹　西「不服ですか。いか程さしあげればいいでしょう」
	直　人「いりません。しかしよかった。この子が亡くなったご長男の忘れがたみと認めてくださったんですね」
	馬　場「いや、そういうこととは話がちがう。この子の母親と称する女だって何を考えてるかわかったものじゃない」
	直　人「この子の母親は、あなたたちよりもずっと清潔な人物だと思いますよ」
	馬　場「なに？」
	直　人「金が欲しければ、この雄一という子を連れて自分で乗り込んでくるはずですよ。それが自分は顔を出さず、戸籍謄本
		にある自分の名を抹消してでも、この子の将来をよろしく頼むということじゃありませんか」
	政次郎「……」
	竹　西「……」
	馬　場「……」
	直　人「私はおしゃべりが過ぎたようですね。役目は終わりました。これで失礼します。（たとうとする）」
	政次郎「いや、この子を置いて行かれちゃ困る。もうすこし事情を調べてみなくては……それまで当地でお待ち頂かないと」
	直　人「もともと私たち夫婦は、九州へ旅行に来たんです。いわば遊びに来たんです。湯布院も悪くはないがそう何日も居る
		つもりはあるません。失礼します。麻子（と促す）」		
			麻子が立とうとすると雄一が、彼女の手をにぎって立ち上がる。麻子は困った。
	麻　子「あなた」
			部屋を出かかっていた直人が足をとめる。
			しっかりと朝この手を握った雄一が見える。
			春かが来る。うしろに夏見、秋のがつづく。
	春　香「叔父さん。お義兄さんたちも、この雄一という子の顔を見れば、誰の子供かわかるでしょう。弘一兄さんの坊やだっ
		てこと、一目でわかるでしょう」
	夏　美「春香！」
	秋　野「お節介をするんじゃないの！」
	春　香「いいえお姉さま」
			宇田川が来る。
	宇田川「お静かに、お静かに。旦那様がおめざめでございます」
			静まり返る。
	宇田川「で、私旦那様にお話を申し上げました」
	政次郎「よけいなことを」
	宇田川「主の高梨竜太郎ですが、あなたさまとその子に会いたいとおっしゃってます」
	政次郎「（舌打ち）それが余計なことだというんだ。兄の手をわずらわさなくても、こっちで片づけるつもりでいたのに」
	春　香「いえ。叔父さま、父が会いたいというのなら、それがいちばんいいことです。（直人に）お手数ですがよろしくお願
		いいたします。私がご案内いたします。どうぞこちらへ。どうぞ……」
			春香は先に立つ。直人たちがついて行く。雄一の手に引かれて麻子もついて行く。
			その後から、ぞろぞろと政次郎、竹西、馬場、夏美、秋野、そして宇田川。		
　　３６　座敷Ｂ
			竜太郎は座椅子に座っている。
			ぞろぞろと人物たちは入ってくる。物々しくもあり、少々滑稽でもある。
	宇田川「旦那様には私から凡そのことは話してあります」
	竜太郎「私が竜太郎です」
	直　人「和泉直人です」
	竜太郎「この度はご面倒なことを頼まれたそうで、まことにご苦労なことでございます。
	直　人「全く迷惑なことです」
			沈黙。
			竜太郎は雄一をみつめる。鋭い目だが雄一はたじろぐこともない。
			竜太郎の手に戸籍謄本がある。
	竜太郎「名は？」
	雄　一「雄一です」
	竜太郎「年は幾つになる」
	雄　一「六歳です」
	竜太郎「お父さんの名は？」
	雄　一「弘一です。高梨弘一」
	竜太郎「母さんの名は」
	雄　一「（無言）」
	政次郎「言わないつもりらしい」
	竹　西「もっとも言われても誰も知らない名前だろう」
			長い沈黙。
			そのあとで、直人に語りかける。		
	竜太郎「何がお望みですか？」
	直　人「え？」
	竜太郎「お望みのものはありますかと言ってます」
	直　人「又、それですか。もう一度しかいいません……」
			小さい間。
	直　人「私はこの雄一君と何ら関係がありません。従って私への配慮は一切いりません。ただ、この謄本が偽物でない限り、
		私は法律家の端くれとして雄一君が、法律的に正当な処遇を受けますように、と願うものであります」
	竜太郎「宇田川」
	宇田川「はい」
	竜太郎「もういい」
			竜太郎は宇田川と桂子の手を借りて横になる。
			春香の先導で直人たちは又部屋へ戻って行く。
	竜太郎「似て居った、子供の頃の弘一そのままだった。といって鵜のみにするわけにはいかないから、当分この家に滞在して
		もらうことになる」
	春　香「はい」
　　３７　座敷
			直人、麻子、……春香。
	直　人》「当分？」
	麻　子》　　〃　
	春　香「はい」
	直　人「同じことを何度も何度も言わなきゃなりませんね」
	春　香「九州へは旅行だとおっしゃいました」
	直　人「その通り」
	春　香「せめて二、三日止まって頂けませんか。その間に私、なんとかいたします」
	直　人「なんとか、とはどういうことですか？」
	春　香「雄一君をうちで引き取れるようになんとかいたします」
	直　人「……失礼ですが、あなたお年は……」
			小さい間。
	春　香「（気負って）二十四歳です」
			直人と麻子は顔を見合わせる。ややあって麻子がうなずく。	
			雄一がみつめている。
			麻子がほほえみかける。
			雄一が和む。
　　３８　湯布院夜景
　　３９　座敷Ｃ
			眠る雄一のかたわらに麻子が座っている。涙を浮べて、しかし眠ったのを確かめて（つづき間になっている
			）
			隣室へ入って行く。
			その部屋で直人が本を読んでいる。
	直　人「眠ったか？」
	麻　子「ええ……（微笑）涙がそっと出たらしいですよ」
	直　人「あの子は悲しいんじゃない。がまんしているんだよ。大したもんだ」
	麻　子「……」
	直　人「そうかといって、六歳の子の信念にゆだねておくわけにもいかない。今のところあの子の見方といえる人間はたった
		一人しかいない。しかもいちばん未熟な二十四歳だ。しかしたった一人のこの二十四歳にゆだねる他ない。明日から
		すこしずつあの春香さんという子に雄一をならすんだな」
	麻　子「……」
	直　人「他に方法がないんだ」
　　４０　隣室
			雄一の目が開いている。
　　４１　湯布院（朝）
			春香が案内して、直人、麻子、雄一が行く。
	春　香「ユフインは、今はお風呂の湯という字を書きますが元は自由の由を書いてユフインといいました。町と近所の村を合
		併した時、温泉のある町という意味で分りやすくしたんだと思います」
	麻　子「自然の他にはほんとになんにもない町なんですね」
	直　人「おいおい、それはほめたのかけなしたのかい？」
	麻　子「（ちょっとあわてる）あら、ほめたんですよ。この頃は何かというと村おこし町おこしで似合わないものが建ってい
		るのにユフインは手つかずの自然ばかりで、私はそれがとても気にいってると言ってるんですよ」
	春　香「そう言って頂けると私もうれしいです」
	直　人「あれは何です？」
				直人が指さしたところに白いビルがある。
	春　香「ああ、あれは生涯教育センターといいましてユフインには珍しいものです」
	直　人「あれが……そうですか」
	春　香「似つかわしくない建物でしょう。あのなかで自殺事件があって、それを発見したのは私と友達なんです」
	直　人「……（新聞記事を思い出す）」
	麻　子「怖かったでしょう」
	春　香「町役場で、その友達が仕事面で関わってましたので呼びましょう」
			携帯電話を取り出しかける。
	直　人「いや、そうまでしてもらわなくてもけっこうです」
			春香はもう電話の主と言葉を交わしている。
	麻　子「（建物を指差し）あれが大学をお辞めになる原因になる建物ね」
	直　人「のどかな温泉の湧く盆地に、汚職のタネを建てるなんて、罪つくりな話だ」
　　４２　高梨旅館・玄関
			車が入ってくる。		
			その車の中で携帯のベルが鳴り、車が止まる。義久である。
	義　久「もしもし、ああ春香ちゃん、ちょうど今春香ちゃんの家へ来たとこだったんだ。今何処？ああ、じゃすぐ行くから、
		そこで待っててくれ」
			義久の車は玄関の車寄せを通って引く返して行く。
　　４３　玄関内
			政次郎と大木桂子。
	政次郎「今車に乗って居ったのは、尾川の息子じゃなかったか？」
	桂　子「はい。義久さんです」
	政次郎「春香と付合いは続いとるんか？」
	桂　子「はっきりとは分りませんけど、続いとるようにおもしますがな」
	政次郎「兄貴は、竜太郎はそのことをどんな風に思っとるんじゃ」
	桂　子「さア、私では分りません。執事の宇田川さんなら分るんじゃないでしょうか」
			政次郎は奥へ入って行く。
	政次郎「宇田川、宇田川」
　　４４　座敷
	宇田川「春香さんと尾川さんのことですか……（考えている）」
	政次郎「おい、兄貴はこの旅館を春香にまかせると言っとるんじゃ。尾川の息子と結婚することになったら、こりゃ大変なこ
		とじゃろう」
	宇田川「はい」
	政次郎「はい、じゃなかろう。あの若僧は由布院をユートピアにするのなんのと、訳わからん事ばかり、役場で言いまわっと
		る。足が地についとらん。春香から相続財産を捲きあげてドカーンと費かわれた日にゃ、一大事じゃ」
	宇田川「若者が夢を追うのは悪くないことと思いますが」
	政次郎「バカ言うな、そこは持ってきて、この度は東京から、訳のわからん子供が送られてくるし、この家の財産はめちゃく		        ちゃにされてしまうわ」
	夏　美「これは裁判にかけて親子の鑑定をしてもらうしかないわ」
	竹　西「裁判なんてかけたら一体どれくらい時間がかかるか分ったもんじゃない」
	馬　場「この頃は民間の研究所でＤＮＡ鑑定もやってくれそうだよ。ここだと二週間くらいで鑑定できるそうだ」
	政次郎「そりゃだめだ」
	みんな「え？」
	政次郎「あの子が高梨竜太料の孫だということを証明して何になる。そんなことを証明したら、それに見合う遺産を持って行
		かれるだけだ」
			みんなが静まり返ってしまう。
	政次郎「あの雄一という子の母親のことは知らんとは言ってるけど、そんなことはあるはずがない。ここはずるずると時間を
		かけずに示談にもちこむのがいちばんの得策だ」
			みんなが頷く。
　　４５　生涯教育センターのビル前
			義久の車が着く。
	直　人「どうもわざわざすみません」
	義　久「いえ」
	直　人「ここで亡くなった人のことは自殺とも他殺とも結論が出ていないようでしたが、その後どうなりました？」
	義　久「司法解剖をしたんですが、どっちともまぎらわしくて結局のところ断定できないんです」
	直　人「そうですか」
	義　久「収賄汚職の鍵を握る証人ですから、殺された疑いも強く、捜査はつづけられています」
	直　人「……」
			義久は「立入禁止」の金網を調べていたが、
	義　久「警察が厳重に戸字まりしましたね」
			戻りがてら義久は雄一を見ている。
	義　久「戻りがてら義久は雄一を見ている。
			すこし離れて雄一がいる。
	義　久「町中の噂だよ。そんなに弘一さんに似てるの？」
	春　香「私は弘一兄さんの子供のころしか知らないの。だから余計に雄一君が兄さんに似てると分るのよ」
	義　久「なる程」
	直　人「春香さん」
	春　香「はい」
			直人は麻子に目くばせする。話の聞こえない場所へというつもりだしい。
	直　人「お言葉に甘えて、もうひと晩ふた晩ご厄介になります」
	春　香「はい（うれしそうに）どうぞ」
	直　人「あの子はどうしても高梨家に置いて行かなければならないらしい。それにはどうしても春香さんに馴れてもらいたい
		のです」
	春　香「はい」
	直　人「たった六歳の子を置いて行くのは、身を切られるような気もするんですが、そうかと言って、それ以外の道はない。
		明日、早速私家内といっしょに旅行に出ます。雄一君は春香山といっしょに居るということにして下さい。その一日
		の間に、なんとか春香山は雄一君を……こんな言い方をしちゃなんだが……つまり手なずけてください」
	春　香「手なずける」
	直　人「（うなずく）他にいいようがないんです」
	春　香「はい。わかります」
	直　人「そんなわけで明日は由布院から離れなければなりません。国東半島へでも行ってみようと思うのですが、どうでしょ
		うね」
	義　久「国東半島はいいところですよ。旅行案内書だと寺や石仏が有名ですが」
	直　人「磨崖仏だとか古い寺だとか」
	義　久「そうそう、まず、熊野磨崖仏です」
　　４６　熊野磨崖仏（翌日・Ｄ）
	義　久「ここは磨崖仏にたどりつくまで、ざっと百メートルくらいの石段があります。ところが石段というなま易しいものじ
		ゃありません。昔鬼が積みあげたというただ積みあげただけの石段で……そこの茶店のおばさんの話によると、近所
		の道を救急車のサイレンが走ると――これは磨崖仏の石仏から誰か転げ落ちたに違いないと噂をするそうです」
	春　香「義久さんははじめから脅かすもんじゃないわ（笑い）茶店では運動靴も貸してくれますし、杖も用意してあります。
		ちょっとだけ苦労して石段を上った甲斐があって石段の上にある大きな不動明王と首だけの大日如来が、そりゃア見
		事です」
			熊野磨崖仏の石段を直人と麻子はゆっくりと上って行く。
　　４７　富貴寺
			国宝富貴寺は平安末期の宝形瓦葺の阿弥陀堂である。
			仁王門の奥にその優雅な本堂が見えて直人と麻子が数段の石段を上って行く。
				「富貴寺」
			その富貴寺の前の道。人通りのない田舎道を、小学生が二、三、いかにものんびりと下校して行く。雄一と
			同い年くらいだろうか。つい麻子がその子たちを見送っている。
			そんな麻子に直人が目をやっている。
	直　人「麻子」
	麻　子「え？」
　　４８　両子寺
			二体の石像の仁王から参道は上りになる。
			直人たちが上って行く。
　　４９　川中不動
			文字通り川の中の岩に不動が刻まれている。川面の映る直人と麻子。
　　５０　高梨家・母屋の門（夕景）
			直人と麻子が戻ってくる。
	麻　子「ただいま」
			奥から雄一が駆け出てくる。
			そして麻子の手をにぎる。
			雄一の後から出て来た春香が、直人と顔見合せる。
	春　香「（小声で）一日ですもの、まだ失敗とは言えません」
			直人はうなずく。
	直　人「今日は国東半島で珍しいものを見てきました」
	春　香「何でしょう？」
	直　人「両子寺に川が流れています」
	春　香「はア」
	直　人「あそこに小さな水たまりがありましてね」
	春　香「そうですか」
	直　人「その水たまりで何十年振りかの再会でした」
	春　香「は？」
	直　人「水すましあめんぼげんごろう」
	春　香「それならユフインにもおります」
	直　人「おりますか」
	春　香「はい」
	直　人「それは気がつきませんでした。明日から楽しみになりました」
	春　香「どうぞ楽しみに一週間でも十日でもおいで下さい」
			直人が苦笑する。
			雄一が麻子にじゃれている、この二人ますます親密なようである。
			苦虫をかみつぶしたような直人。
　　５１　座敷
			雄一が麻子と遊んでいる。
			外から春香の声で、
	　　　「雄一君」
			障子が開いて、
	春　香「お姉ちゃんと遊びましょう」
	雄　一「……」
	春　香「（麻子に）桂子さんが雄一君と仲よしになりたいんだそうです」
	直　人「そりゃいい、行っておいで」
			雄一は麻子に助けを求めるような視線だが、麻子、雄一をうながす。
			春香のうしろから桂子が姿を見せる。
	桂　子「お坊ちゃま、桂子……大木桂子でございます」
	雄　一「……」
	桂　子「（直人に）亡くなった弘一さまも私が面倒みさせていただきました。雄一お坊ちゃまも私が誓ってお守りします」
			春香が雄一の手をとり、桂子と三人で出てゆく。
			麻子がお茶をいれる。
	麻　子「あなた」
	直　人「うん？」
	麻　子「やっぱり東京へ連れて帰りましょう」
	直　人「連れて帰ってどうなるんだ」
	麻　子「私たちは雄一君のお母さんを知らないけど、お母さんは私たちのことを知ってるのよ。私たちが雄一君を連れて帰っ
		たと分れば必ず姿をあらわすわ」
	直　人「あらわさなかったらどうなるんだ」
	麻　子「そんな薄情な人じゃありません」
	直　人「さアそのことだよ。厚情必ずしも温情ならず薄情の道を知るべしという言葉を知っているかね」
	麻　子「……え？」
	直　人「誰が言った言葉かしらないけれど、なかなかうがった言葉だ。雄一君の母親はそういうつもりで雄一君を送り出した
		んだ。つまりだね、目先のべたべたした人情がその子の一生にとって本当の温情なのかどうかということさ、むしろ
		今薄情に見えることが本当の温情ではないのか、……雄一君の母親は、その薄情を選んだのではないのか、私にはそ
		う思えるんだよ、どうだろう」
			麻子無言
	麻　子「理屈で言えばそうですけど」
	直　人「物どとは理屈で考えなければだめだろう」
	麻　子「でも、やっぱり理屈は理屈ですよ」
			沈黙。
			女の声で「おじゃまいたします」
	麻　子「はい」
	女の声「お手つだいをしております愛子です」
	麻　子「はい」
			障子が開いて、愛子。
	愛　子「夏美さまのご主人の竹西さまからのお言伝えで、今夜もしおひまがあればお話をしたいとのことです」
	直　人「誰と？」
	愛　子「和泉さまのご主人様と」
	直　人「今迄話してきたことと同じ話を又するのはいやだとお伝え下さい」
	愛　子「（困ったように）は、はァ、とおっしゃいましても」
	直　人「ああ、わかりました、参りましょう」
　　５２　天井桟敷
			直人が入ってくる。
			古い振子時計が鳴り出す。そして……九つ。
			竹西はまだきていない。
			店のマスターが水とおしぼりを持ってくる。
	直　人「人と待合わせてますので後程」
			マスターは会釈してカウンターへ入って行く。
			時計の振子。
			時計は九時十五分になる。
			やがて――
	直　人「マスター」
	マスター「はい」
	直　人「紅茶を下さい。温かいのをミルクで」
	マスター「はい」
			マスターが紅茶の葉をポットに入れる。随分本格的に入れるつもりだしい。
			ややあって。
	竹　西「お待たせしました。うちの方でも多少話し合いがありまして。そんなわけでして、家の中では話しづらいこともあり
		まして、でわざわざおいで頂きましたようなわけで（言いにくいことがあると次第に大阪弁がまじってくる）」
	直　人「お話というのは何ですか？」
	竹　西「つまりですね、なんといいますか。和泉さんの方としましても、あんな小さな子供を連れてわざわざ由布院までおい
		でになられたわけですから、それなりの用件があってのことだと思わないわけにはいきません。私ら大阪生まれのも
		のからみますと、これはまず報酬ですわ」
			マスターが紅茶を持ってくる。
			直人が言い返そうとする。
	竹　西「そっちは違うと言われても、私らにしてみれば報酬だとはっきり言ってもらった方がすっきりします」
			直人辛うじて抑えている。
	竹　西「この際、あの子が高梨弘一の息子であるかないか、そういうことは、もうどうでもよろしい、あの雄一という子
		は弘一の息子ときめましょう。あの子は高梨竜太郎の孫と認めましょう。その上で、ここに署名とハンコを頂けませ
		んやろか。拇印でもけっこうだす」
			紙をだす。
			「示談書」の形式になっている。
			住所――和泉直人は高梨雄一の後見人として金（空欄）を受け取ることをもって高梨雄一が高梨竜太郎から
			受取る遺産の権利一切を放棄する。
			といった意味の示談書である。
			それを読む直人の手が小刻みにふるえている。
			竹西はその紙の上に札束を置く。
	竹　西「高梨の家の者たちで相談をしました結果……百万円でおます」
			小さい間。
	直　人「（声は押さえ気味に）馬鹿にするな」
			立ち上がった拍子に椅子が倒れる。
			店内に緊張が走る。
			が次に直人がやったことはというと、倒れた椅子を起し――奮然と店を出て行こうとするが、又テーブルの
			ところへ戻ってきて財布から千円札を出し、
	直　人「紅茶の分」
			直人出て行く。
			テーブルの上の百万円。
　　５３　高梨家・母屋の門（朝）
			門の外を愛子が掃いていたが、突然息をのむ。声が出ない。家の中へ走りこんで行く。
　　５４　同・廊下
			政次郎の袖を引いて部屋から連れ出す。
	政次郎「どうしたんだ、え？　どうしたんだ」
			声の出ないままに愛子が外を指さす。
	政次郎「だからどうしたんだよ！」
			その騒ぎで部屋から（竜太郎、雄一を除く）すべての人物が出てくる。直人と麻子も出てくる。
　　５５　同・門前
			前シーンの人物たちがぞろぞろ出てくる。
			女たちの悲鳴が聞こえる。
			人が死んでいる。
			竹西である。
			ひときわかん高い悲鳴は夏美である。
	夏　美「あなた！」
			取りすがろうとするのを、直人がす早く引きはなす。
	直　人「だめです奥さん、現場を保存してやらなきゃ警察が困ります」
			夏美は半狂乱である。
			直人にしがみつき泣きわめきながら、
	夏　美「あんただ、あんたが殺したんだ」
			救急車とパトカーのサイレンの音が次々に聞こえてくる。
　５６　座敷
	麻　子「（入って来る）あなた昨夜うちに帰ってきたのは十時前だったんじゃない？」
	直　人「そうか……うん出かけたのが九時だから、なんだかんだでそんな頃かな」
	麻　子「竹西さんが殺されたのは午後十時ごろなんですって」
	直　人「どうして殺されたと分るんだ」
	麻　子「だって頭の骨を折られ」
	直　人「事故かもしれないじゃないか。つまずいて転んだら頭を打ったってことだってあるじゃないか」
	麻　子「ずいぶん冷静なのね」
	直　人「さもなくば俺が殺したとでも言うのか？」
	麻　子「何人かはそう思っているんじゃない」
	直　人「もうそろそる来る頃かな」
	麻　子「……」
	直　人「気にならんのか」
	麻　子「別に……」
　　５７　同・廊下
			山内捜査主任と若い刑事がロビーで政次郎、馬場、夏美と話していたが、山内、刑事は立ち上がる。
			そして、廊下へ向かって歩き出す。
			山内と刑事が座敷前へ歩いて来る。
	山　内「和泉直人さん、おいでになりますか」
	直　人「はい」
　　５８　座敷
	山　内「ちょっとおじゃまいたします」
			障子が開いて山内が顔をのぞかせる。
	山　内「私」
			山内はポケットから手帳を出して見せる。
			警察手帳である。
	直　人「身分証明をおねがいいたします。
			若い刑事がむっとするのを山内が押える。
	麻　子「あなた」
			麻子も又直人をたしなめる。
			山内が手帳を開いて身分証明を見せる。
			大分県警察部補山内とある。
	山　内「失礼しました（ずいぶん丁寧ではある）」
	直　人「こちらこそ」
			こっちも又丁寧である。
	山　内「そちらも身分をあかして頂けませんか」
			直人は名詞を取り出す。
	山　内「ほー、明和大学法学部教授ずいぶんおえらい方なんですね」
	直　人「特別のものではありません」
	山　内「ここでは奥様もいらっしゃることですし、御足労ですが、大分の所轄署までおいで頂けませんでしょうか」
	直　人「妻がいるからと言って困るとか困らないと言うことではないでしょう（と言って、くすっと笑う）」
	山　内「何がおかしい」
	直　人「いや、妻だなんて言ったものだから、自分がおかしくなって」
	山　内「うん？」
	直　人「この頃の若い者に言わせると結婚なんてものは、そもそも紙一枚の形式のもので籍をいれようが入れまいが愛がいち
		ばんと言うんですな。ところが民法によると、結婚とはあらかじめ決められた用紙にお互いの名前を書き、ハンコを
		押して役所に提出した時、夫婦の関係を認められると言うんです。つまり結婚といい夫婦といっても愛だなんだと力
		んだり気どったりするもんじゃないんです」
	山　内「なんの話です？」　　　　　　　　 
	直　人「ですから私たちは妻を妻というのを、すて女房とかおかみさんとかいうのを復活させなきゃいけないんせす」
	山　内「ちがう、私は大分の所轄へおいで頂きたいと言ったんです」
	直　人「ですから私はそうまで大げさにすることはないといったんです」
	麻　子「あなた」
	直　人「……」
　　５９　大分署・概観（Ｄ）
　　６０　同・刑事課
	山　内「昨夜十時前後、あなた何処にいました？」
	直　人「昨夜九時、近所の天井桟敷という喫茶店へ行きました」
			山内が口を切ろうとすると直人はおしとどめる。
	直　人「質問はいりません」
	山　内「……」
	直　人「九時に間違いありません。店の振子時計が九時を告げました。時計が正確かどうかは、マスターに尋ねて下さい」
	山　内「……」
	直　人「九時十五分、ミルクティーを注文しました。まもなく竹西さんが入ってきました。彼は私の一番きらいな用件をたず
		さえて私に会いにきたんです。それがどういう用件かもうすでに御存知でしょう？」
　　６１　（回想）天井桟敷
			直人のＮ「思いだすだけでもうんざりですよ」
			竹西がテーブルの上に紙を出す。
			示談書である。
			それを黙々読む直人。
			直人の手がこきざみにふるえている。
			そんな無気味な雰囲気をマスターが注視している。
			竹西は示談書の上に札束を置く。
			直人が押しやって立ち上がる拍子に椅子が倒れる。
　　６２　刑事課
	山　内「それで帰ったのは何時ですか」
	直　人「時計なんか見ていませんね」
	山　内「お手伝いの話じゃ、午後10時を10分くらい過ぎてたと言うが？」
	直　人「では、そのくらいでしょう」
	山　内「マスターは、あんたが店を出て行ったのは９時50分だと言ってる。竹西さんもあんたの後を追うように直ぐ出て行っ
		たそうじゃないか。天井桟敷から高梨家まで20分はかからんよ」
	直　人「真っ直ぐ帰りましたよ。お手伝いの時計の見間違いではないか」
	若い刑事「（怒鳴る）見間違いじゃ通らないンだよ！　その20分間に何やったの？」
			山内も睨み据える。
	直　人「嘘は言っておらん。よく調べてくださいよ。ところで刑事さん、私と家内はこれから予定があるんです」
	山　内「もうすこしいて頂けませんか」
	直　人「言うべきことは全部言いましたよ」
	山　内「……」
	直　人「私は法律にかけては素人というわけではありません。何を何処まで言わなければならぬのか。警察は今何をたがって
		いるか私にはすべてわかっています。現に今度の場合にしても死体にとりすがろうとした奥さんを引き離したのは私
		です。現場保存できなくなりますからね」
	山　内「もうすこしだけ待ってください。まもなく地検の検事さんが到着しますから」
	直　人「地検の検事？そりゃおかしい」
	山　内「？」
	直　人「私はまだ起訴されてるわけじゃありません」
	山　内「一々うるさいなあ、あんたいったいどういうつもりだ」
	直　人「あんたこそどういうつもりですか。こんな初歩のその又初歩のこと。刑事訴訟法を持ち出すこともない『事案』でし
		ょう」
	山　内「『ジアン』、『ジアン』とは何事ですか」
	直　人「その程度のことを質問されちゃ他の学生の迷惑になる……というところでしょうな」
	山　内「あんた大学の講義でもしてるつもりか？」
	直　人「いずれにしろ、帰ります」
			直人帰ろうとする。
	山　内「おい、おい」
			ちょうど、ドアが開いて四十歳くらいの男が入ってくる。
	山　内「検事」
	谷　口「参考人？」
			直人が心当りがありみつめる。
	谷　口「先生！　和泉先生」
	直　人「谷口君か？」
	谷　口「（感激）はい。谷口です。私を覚えていて下さいましたか」
	直　人「思い出したよ。単位が一つだけ足りないと泣きついてきたんだ」
	谷　口「はい」
	直　人「しかしこちらの刑事さんの手前正直言っておくけど君は情実で単位をあげたんじゃないよ。立派に最低の成績で単位
		は通過したんだ」
			二人が顔見合わせて笑う。
	直　人「で君は今、大分地検の検事」
	谷　口「はい」
	直　人「といっても（自分を指さして）この参考人の取調べで来たわけじゃない」
	谷　口「は？　は？」
	直　人「今この方に言ってたところなんだが、私はまだ検事の取調べを受ける立場じゃない」
	谷　口「そりゃそうです」
	山　内「（困惑）」
	直　人「（山内に）どうしましょう」
	山　内「よろしいように」
	直　人「このまま話を続けていいですか」
	山　内「（しぶしぶ）どうぞ」
	直　人「谷口検事がこちらにみえたのは、いや綿密にはあらかじめおいでになっていたのは『生涯教育センター計画』の一件
		を調べていたからでしょう。
		といっても部外者の私にいいとも悪いともいうわけにいきませんね。いかがでしょう、この件については、オフレコ
		でお話して頂かないことには私も気がすみません」
	谷　口「（困惑して）いや、いやこの話はこれでいいでしょう」
	直　人「ということは竹西氏の事件についての聴取はこれでおしまいという事でよろしいというわけですね」
	谷　口「……」
	直　人「（山内に）いかがでしょう」
	山　内「（谷口に）ということで」
			谷口はうなずく。
			直人は部屋を出て行こうとしてとどまり、
	直　人「といっても私一応の参考人として、これからの所在を明らかにしておきます。これから家内と一緒に観光めぐりをし
		てくるつもりですが行き先が決ったらお知らせしましょう」
	山　内「（せかすように）ああ、今夜のお泊りさえ聞いておけばそれで結構です」
　　６３　母屋の玄関
			直人、麻子、桂子が奥から来る。
			と、雄一が追いついて来て麻子の手をとる。
	春　香「雄一君、雄一君」
			雄一はまるで鬼ごっこのように麻子の背にかくれる。
	春　香「駄目よ」
			鬼ごっこの情景である。
	春　香「雄一君（思わず声を荒げてしまう）」
			雄一が悲しそうである。
	春　香「ごめん、ごめん」
			春香は雄一を抱きしめてやる。
			玄関を出て門に向かう直人に桂子がついて来る。
	桂　子「あの……」
	直　人「なにか？」
	桂　子「いえ……（言いよどむ）、これからどちらまで？」
	直　人「家内が『荒城の月』が大好きだと言うので」
	桂　子「竹田市の、お城あとですね。いってらっしゃいませ」
			麻子が追いついて来る。
　　６４　ＪＲ竹田駅（豊肥本線）
			ホームに『荒城の月』の曲が流れる。
			停車した列車から直人と麻子が降り立つ。
	麻　子「いいわあ……（くちづさんで）滝廉太郎は少年時代を此処で過ごしたんですってね」
　　６５　竹田市内・滝廉太郎記念館からトンネルへ
			滝廉太郎記念館の表を歩くふたり。
			その前のトンネルへ入る。『鳩ぽっぽ』など滝廉太郎作曲の童謡メロディーが流れる。
			トンネルを出ると子供達が歓声挙げて飛び込んでくるのに出会う。
			ひとり、遅れて追いかける小さい男の子。
	男の子「にいちゃーん……待ってよ」
			麻子と直人は立ち止まり、トンネルに駆け込む男の子を見送る。
	直　人「おい」
	麻　子「？」
	直　人「忘れなきゃ」
	麻　子「はい、はい」
　　６６　同・岡城阯
			堅固な石垣が聳える岡城阯。見渡すふたり。　（大手門跡・付近）
	直　人「八百年昔に築城されてから何度も戦があり、難攻不落の城として知られた」
	麻　子「（笑って）春は桜の名所ですって。月見も素晴らしいそうよ」
			本丸への道を登る直人と麻子。
	直　人「女は歴史を考えないからいかん。『荒城の月』のモチーフだぞ」
			本丸跡の一角に『滝廉太郎』の像。
			眺めるふたり。
	麻　子「彫刻家、朝倉文雄の作品ですって。滝廉太郎はこの城跡へよく登ったそうよ。『荒城の月』を作曲したのは二十歳だ
		というから、やはり天才だわ！」
	直　人「ふーん、よく知ってるじゃないか」
	麻　子「『荒城の月』には乙女時代の思い出がありますから」
	直　人「ほう、どんな思い出かね」
	麻　子「（さらりと）ヒ、ミ、ツ」
　　６７　同・見晴台
			麻子が下をのぞいている。
			ふいに「あら」とつぶやく。そして、
			直人が、けげんそうにする。
	直　人「どうした」
	麻　子「桂子さんがいたの」
	直　人「大木桂子さんのことか？」
	麻　子「乗用車にひっぱりこまれて……」
			直人は麻子の指さす方を見るが、分らない。
	麻　子「言っちゃったわ……でも変ね」
	直　人「そんな筈ないだろう。見間違いじゃないか」
	麻　子「そうよね。桂子さんなら家事やら看病やらで、忙しい筈ね」
　　６８　旅館
		純和風の落ち着いた部屋。夕食の卓に向かう直人と麻子。
		仲居は下がった後。
	麻　子「田楽にハモ……名物料理かしら、おいしそう」
		直人がビールを注いでやり、ふたり飲む。
	麻　子「ね、どうして気が変ったの？　高梨のお宅に帰ってもよろしかったのに」
	直　人「せっかく春香さんが雄一君を預かってくれたんだ。大木桂子さんもついてることだし、そこへお前が帰っていって雄
		一君を甘やかす事はないだろう。早く早く春香さんに壊いてもらわなくちゃ」
	麻　子「そういうものかしら……私、やはり帰りたかったナ」
		黙り込む。直人はビールを飲む。
　　６９ 　旅館・一室（朝）
		下駄履きで庭に立つ直人。縁側で茶を淹れる麻子。
	直　人「今日は阿蘇まで足を伸ばしてみるか」
	麻　子「ええ……でも早めに湯布院へ戻りたいわ」
		直人は縁側に座り、茶を啜る。
	直　人「周遊券の期限もあと三日だ。講演予定があるし、依頼原稿も書かなくてはならない。雄一の問題がそれまでに決着す
		ればいいが」
			ラジオから大分地方の天気予報が流れていたが、
	ラジオ「……ちょっとお待ち下さい……失礼しました。事件の速報が入りました。
		今朝六時ごろ、湯布院町の由布院神社で首を吊った女性の遺体が
		発見されました。女性の身元を調べたところ、高梨竜太郎さん方のお手伝いで、
		大木桂子さん、五十歳とわかりました」
			麻子は愕然とし、ラジオの前に行く。直人も棒立ち。
	ラジオ「大木さんは神社の境内の木の枝で首を吊っており、発見されたときは枝が折れて
		地面に倒れていたということです。死因に不信な箇所もあり、警察は
		捜査を進めております。繰り返します。……」
	直　人「おかしいな。麻子だって、そう言ったろう。昨日、ほんの少し前に別れた大木桂子が、竹田にいるなんておかしい」
	麻　子「あれは人違いだったんですよ」
	直　人「だからどうだっていうんだ」
	
　　７０　高梨家・母屋の玄関
			直人がタクシーで乗りつける。
			山内や若い刑事、行手を阻むように出てくる。
			その他、刑事や鑑識。
			ものものしい雰囲気。
			次に谷口検事が出て来る。
	谷　口「先生、お待ちしておりましたよ」
			山内が不服そうに谷口に目をやる。
	谷　口「（山内に）先生は名探偵でいらっしゃるんだよ」
	山　内「？」
	直　人「いやあ」
	谷　口「大学の頃、講義のはじまりに、迷宮入りの事件を面白おかしく解説してくださる、これがなかなかのものでね、授業
		よりはそっちの方が楽しみだった。この間も北海道で難事件を解決されたそうだ」
			車の中で麻子が、クスリと笑う。
　　７１　応接室
			直人と谷口が話している。
	谷　口「現場を発見したのは神社の巫女さんです。その時、大木桂子は地上に倒れていたといいます」
				×	×	×
			神社の境内。山内刑事以下、巡査たち。
			地上に倒れ伏した大木桂子の遺体。
			巫女さんが緊張して説明している。
				×	×	×
	直　人「枝は？」
	谷　口「枝は、折れておりました。しかし鑑識の調べの結果、首をしめたロープの跡が少しずれた形跡がありまして、絞めな
		おしたというか、不自然な箇所がみつかったという訳です」
	直　人「絞め殺してから木に吊るしたとも、考えられるわけか」
	谷　口「そうです。ただし、木の枝が折れた時にロープがはずれたという考えも捨てきれないわけでして……」
　　７２　座敷Ｂ
			竜太郎と雄一、春香が部屋にいる。
			雄一が、あっとなる。
			麻子が戻って来たのである。
			雄一は麻子の方にかけ寄る。
　　７３　応接室
	直　人「大木桂子を最後に見たのは誰ですか」
	谷　口「お手伝いの上森愛子です。彼女によりますと、大木桂子は夜八時過ぎ外出しました。死亡推定時刻は、昨夜九時から
		十時です。外出してから一、二時間のうちに殺されたという事になります。現場付近には争ったあとはなく、所持品
		もなくなって居りません。他殺だとすれば、怨恨ですかね。それもごく親しい間柄の」
			そこへ山内刑事が入って来る。
	山　内「（谷口に）高梨家の事情聴取終わりました」
	谷　口「竹西夏美については、どうした」
	山　内「はい、夏美は昨日午後まだ陽のあるうちに、大阪に行っております。アリバイについては全く問題ありません。
		ところで、お手伝いの上森愛子がちょっと気になる事を見ています」
	直　人「？」
	谷　口「？」
	山　内「一昨日の夜、大木桂子が竹西と、何やら内緒話をしていたというのです」
	直　人「一昨日？　何時ですか？」
	山　内「八時頃だったそうです」
	直　人「（独りごとのように）　かといって昨日出合ったのとは関係ないようですな」
	山　内「しかし先生、愛子は今迄に何度かそういう所を見たことがあるそうです。だから上森愛子は二人がひょっとしたら親
		密な関係ではないかと疑ったそうです。それにしてもですね、竹西が殺された動機はどう考えても遺産争いです。ど
		う思いますか」
			直人がうなずく。
	直　人「常識的にはね」
	山　内「そこで私ハタと気がついたわけです。竹西と桂子が親密な関係だったとしたら二人の間はちょっとしたものになるわ
		けです」
	谷　口「そりゃあ君、つりあわんだろう」
	山　内「いやこの頃はそういったものでもありません」
　　７４　廊下
			直人が歩く。
　　７５　座敷
	直　人「おじゃまします」
　　７６　座敷内
			竜太郎のまわりに雄一、麻子、春香がいる。
	竜太郎「雄一……お父さんの顔を……顔を覚えているか」
				雄一、寂しそうにかぶりをふる。
				直人が入って来る、
	直　人「間違いありません」
	竜太郎「あんたが、この子を連れてこの家に現れた時、どんなに憎かったか。あの女は、弘一を私の手から奪っていった。し
		かしこの二、三日この子を見ているうちに間違っていることに気がついた。この子はどうみても、弘一の子だ。よく
		まあ思い切って連れて来て下さったもんだ。息子に似ておる。息子そのものだ。有難う……有難う。この家では、浅
		ましい事が起っている。誰かがこの子を守ってやらなきゃならない。どうかよろしくお願い申します」
				直人は一礼して部屋を出て行く。
　　７７　座敷Ｂの前の廊下
				廊下でたたずんでいた宇田川が直人に深々と一礼する。
	宇田川「雄一様のこと、お陰さまで……殺された大木桂子と私は、弘一様が亡くなられてからというもの、どれほど心配して
		おりましたことか……ここまでこぎつけたからには、ご家族のなかの争いごとさえ治まれば安心できます。何とぞお
		力添えを」
				深々と頭を下げる。
　　７８　座敷
				その時ドアホンの音がして一人の女が入って来る。
	夏　美「ただいま。これから親族会議を開きます」
				（元気いっぱいの声である。自信に満ち颯爽としている）
	夏　美「みんないるの」
				返事がない。
				（皆、ぞろぞろ出て来る。秋野、春香と雄一、馬場、政次郎、麻子。宇田川と直人も来る）
	夏　美「あなたは、いらない」
	直　人「親族じゃない人間は、いらないわけですか」
	夏　美「そう」
	直　人「そりゃそうですね」
				雄一、去ろうとする。
	夏　美「あんたは、いなさい。問題の子だもの」
				春香、去ろうとする。
	夏　美「春香……あなたはいなきゃ駄目でしょう」
				尾川……去ろうとする。
	夏　美「あなたは、いて」
				尾川、とまどっている。
	夏　美「竹西の葬式だして、私なりに踏ん切りついたわ。殺されたのは悔しいけど会社が助かったのは事実。こうなったら私
		は私なりにやります。もし雄一に謂れのない遺産を残すと言うなら、お父さんだって許せないと思う」
				夏美は尾川を見据えて、
	夏　美「ことにあなたは、遺産相続には一番あぶないひとなの」
	尾　川「え？」
	夏　美「だってそうでしょう。この高梨の旅館は、春香が相続するんだし、相続した旅館を、みんなで後見するというややこ
		しい事になっているんだから。あなたは由布院の文化起しだとか社会事業とかに力が入っていて、春香と結婚したら
		、春香よりもあなたの行動を監視しなきゃいけなくなるの。今日はそのへんをちゃんとしておきましょう」
	尾　川「（憤然として）僕は公務員として立案し、町役場のなかで地道に施策を実行しています。春香さんに資金を出しても
		らおうなんて、思った事もない！」
				出て行く。
				春香が、義久さん、と追う。
　　７９　大分市警の部屋
	山　内「いくつか調べのついたものがあります。大阪府警の調べです。かなり重要なものです。殺された竹西についてですが
		、ある人物から五千万円借金しています。『五千万円ぐらいは、すぐに返したる』といきまいていたそうですが。も
		っとも二億円以上も経営者保険に入っていたと分りましたが、その実、五千万円は返せなくなりました。借りた先が
		、なんと、大木桂子さんだったから」
	谷　口「あの二人は、つり合わないと言っただろ」
	山　内「しかし実際問題として、借りてしまったんです。しかも返せなくなった。といって竹西が桂子と結婚してくれるでも
		ない。思い余った桂子が無理心中に及んだとは考えられませんか」
	谷　口「桂子が竹西を殺して自殺したと言うのか……？　しかし大木桂子がそんな大金を持ってた訳がないじゃないか」
	山　内「それが日田のあたりにかなりの山林を持っていたそうです」
	谷　口「先祖代々の土地かい」
	山　内「（秘密めいて）以前、日田に『魔法の水』が出ると言われた時期があったんですよ。これがアトピー性皮膚炎に効き
		目があるとかで、魔法の水と呼ばれた。それでこの水の水源を探し回って投機師が群がったのです。竹西は大木桂子
		と二人でこれに手を出していたのかもしれません」
　　８０　座敷（Ｎ）
				直人が座っている。対座しているのは谷口である。
	直　人「面白い話ではあるがね」
				電話が鳴り、谷口が取ろうとすると、直人は、妙に素早く取る。
	直　人「もしもし」
	女の声「もしもし」
	直　人「もしもし、どなたですか」
	女の声「和泉直人先生おいでになりますでしょうか」
	直　人「（怪訝そうに）私ですが」
	女の声「……」
	直　人「もしもし」
　　８１　もとはし・坪庭（Ｎ）
				32歳位の女が蹲くまっている。もとはしの仲居である。
　　８２　座敷（Ｎ）
	直　人「もしもし」
	谷　口「せんせい、どうしました？」
	直　人「（耳をすましている）」
				すると、まるで由布院の霧が湧くように、もとはしの品のいい喧騒が湧いてきてはじける。
	直　人「あなた、もとはしの仲居さんだね、名前は、なんていうの」
					×	×	×
				（以下『もとはし』の電話口と高梨家座敷の電話）
	みち子「……板坂みち子です」
					×	×	×
	直　人「そう」
					×	×	×
	みち子「おさわがせしてすみません」
					×	×	×
	直　人「という事になると、私とあなたはもう随分、何度も会っている事になる」
					×	×	×
	みち子「はい、実は……私、雄一の母です」
					×	×	×
	直　人「えっ……きみが!?　　なぜ今まで」
					×	×	×
	みち子「テレビ見て、大木桂子さんが自殺なさったと知りました。でも、それは間違いです。自殺できる筈がありません。だ
		から殺されたんだわ!」
					×	×	×
	直　人「と言うと？」
					×	×	×
	みち子「じつは、雄一を高梨家に寄越すように強く勧めて下さったのは、桂子さんなのです。お祖父様の御容体が思わしくな
		い今を逃しては、名乗り出る機会はないからとはげまされました。そのかわり雄一の面倒は桂子さんが責任もってみ
		て下さると言っていただけに……」
　　８３　高梨家・座敷（Ｎ）
	みち子の声「だから今、雄一のことを忘れて桂子さんが自殺するなんて考えられません。私、明日、大分へ参ります。それま
		でよろしくお願いします。
				電話が切れる。谷口が見つめる。
	直　人「（呟く）これで、身軽になれるわけか……」
　　８４　座敷Ｂ
				直人と麻子が宇田川に案内されて入って来る。
	宇田川「和泉先生ご夫妻はご都合でお発ちになられます」
				竜太郎は宇田川のかい添えで身を起す。
	竜太郎「それはまた？」
	直　人「雄一君のおかあさんはの、板阪みち子さんが迎えに来ました。このこと、ほかの皆さんには話していません。御当主
		のお考え次第で、どのようにするか決めたいと思いますが、私たちの用はこれで済みましたので失礼することにしま
		す」
	竜太郎「……では、来るがいいと伝えてやってください」
	麻　子「よかった……」
				宇田川がそっと目頭を押える。
　　８５　高梨家の玄関
				春香の車、運転席に春香。後部に直人、麻子。トランクに荷物を入れ終えた宇田川が直人に近寄り
				、後でお読み下さい、と囁いて封筒を渡す。直人、内ポケットへ。
　　８６　亀の谷山荘・入口
				春香の車が入って来て停まる。下りる直人と麻子。
	直　人「（春香に）貴女だけに引き合わせておきたいひとがいる。一緒に来てください」
　　８７　亀の谷山荘のロビー
				奥から走り出てきた板阪みち子。
	みち子「先生！　雄一は？（キョロ、キョロする）」
				目を見張る春香。
	直　人「お祖父さんのところです。行って会うといい。竜太郎氏も待っておられる」
	みち子「でも……」
	直　人「でも?」
	みち子「「私が行ったら雄一のためにならないと思うのです。このまま連れて帰りたい」
	直　人「雄一君にとって一生を左右する大事な時です。あとの事は竜太郎氏が考えてくれますよ。お祖父さんは雄一君を本当
		の孫だと考えてますよ。
	みち子「さぞ私を憎まれたことでしょうに……先生と奥様にはご迷惑をおかけして、すみませんでした。桂子さんはずっと前
		から弘一さんと私のことをご存知で、心配してくれていたのです」
				直人は頷いて、考え込む。
					×	×	×
					（回想・S#78）
	宇田川「……殺された大木桂子と私は、弘一様が亡くなられてからというもの、どれほど心配しておりましたことか……」
				いとおしげに目を潤ませる宇田川。
					×	×	×
	直　人「大木桂子さんと宇田川さん……ふたりが愛しあってたことはなかったのかな」
	みち子「はい……？　ええ、そんな感じがあると、弘一さんが言ってたことを覚えてますけど」
　　８８　亀の谷山荘の玄関
				直人、麻子、みち子、春香。
	直　人「それでは、春香さん、みち子さんをよろしく」
	春　香「はい」
	直　人「僕達は、今夜ここに泊まって、明日帰ります」
　　８９　亀の谷山荘の一室（Ｎ）
				浴衣姿でくつろぐ直人と麻子。茶を喫しながら、
	麻　子「事件の解決を中途半端にしたまま、ホントに帰っちゃうの？　谷口さんがガッカリするわ」
	直　人「これ以上面倒みることはない。僕は探偵じゃないんだぞ」
	麻　子「あら、そうかしら。ね、教えて。夏美さんの夫の竹西さんを殺したのは誰？　大木桂子さんだなんて言っても私、信
		じませんからね。そして桂子さんは誰？」
	直　人「……」
	麻　子「今度出合った事件は、みんな曖昧なのよね。生涯学習センターで首を吊った、相羽元次官の個人秘書の方だって、不
		正事件を揉み消すために殺された疑いがあるわけでしょ？　桂子さんも自殺か殺されたのか、判定のキメ手が未だな
		いでしょう？　もしかしたら桂子さんは、竹西さんを殺した犯人を知ったために殺されたんじゃない?　桂子さんに似
		た人をみかけたこと、谷口さんに知らせたほうが良くない？」
	直　人「お前のほうが名探偵だよ。山内捜査主任は、長女の夏美さんが不倫していて、その不倫相手が竹西さんを殺した犯人
		ではないかと疑ってるそうだ。夏美さんにはアリバイがあるからな。もしそうなら夏美さんは殺人共犯だから相続権
		を失うが……さて、ゆっくり露天風呂につかってくるとするか。一緒にどうだ」
	麻　子「もう眠いわ。ひとりでどうぞ」
				立ち上がった直人、思い出して宇田川の手紙を取り出して、読む。
				思わず、あっ、となる。
	直　人「執事の宇田川さんは、竜太郎氏の弟と、政次郎に泣きつかれて高梨家の金から貸してあげた。それが焦げついて、二
		年のうちに四千万円になったという」
				麻子は座り直して直人に注目する。
	宇田川の声『高梨家の御内証のみならず家業全般の管理を預かる私が、旦那様のご信頼をかくも裏切った事、このうえなく申
		し訳ない次第ではありますが、いま一度、政次郎様に返済方を談判する所存でおります。もしお聞き届けなき場合は
		、私の立場ももはや限界ですので、政次郎さまがどれほどお怒りになられようとも、この件を旦那様はじめ他の皆様
		にもうしあげる決意でおります。ただその際、私の身の上に万一の事が無いとも限りません。その節は何卒、先生の
		お口添えをもちまして、雄一様の家督御継承の運びになりますよう伏してお願い申しあげる次第でございます。　宇
		田川信之』
	麻　子「（しみじみと）宇田川さんて、お気の毒ね。十七の時から高梨家で働きはじめ、未だに独り身ですって。それがこん
		な目に会うなんて。これで欲深の政次郎さんも遺産の分け前に預かれなくなるわね」
	直　人「……どういう意味かな、『万一の事』とは」
				部屋の電話が鳴る。
	直　人「はい、あ……春香さん……なにっ、宇田川さんが殺された?」
　　９０　金鱗湖のそば（早朝）
				湖畔の水辺ちかく、倒れ伏した宇田川の死体。
				苦悶の表情。右手の指が土を掻きむしり、泥に汚れている。
					×	×	×
				検死医が合図する。
				係官が遺体を担架に移し、運び出す。
				縄張りの外から手を合わせて見送る直人。
				鑑識員たちがあたりを綿密に調べ回っている。
				疲れ果てた様子の山内捜査主任が直人の側に来る。
	直　人「死因と死亡時間ははっきりしましたか」
	山　内「おおよそ、午前零時前後です。死因は青酸系の毒物」
	直　人「自殺か、それともたさつか？」
	山　内「参りました……毒の入っていた容器が見つからないんですよ。死体の様子から見て絶命したのはこの場所に間違いな
		いし、容器さえ傍らにあれば自殺なんだが」
	直　人「問題は遺書の有無か……」
				あっという顔をする山内。
				数名の鑑識員が水のなかに入り、調べ回っている。
				空き瓶やヨーグルト容器などを慎重に水底から引き上げる。
				直人は方向を見定め、かなり離れた草むらに入る。
				何か探す。とうとう一ケの缶コーヒーの空き缶を探しだした。それをじっとみつめている。とんで
				来る山内。鑑識員が写真を撮って缶を採り上げる。
	山　内「勝手されちゃ困りますね！　もしこれが……」
	鑑識員「主任、匂いますよ。至急、検査に出します」
				山内が遺体の位置からの距離を目算して、
	山　内「（呟く）50メートルはある……今度こそ他殺か」
				苦笑を洩らす直人。
　　９１　亀の谷山荘・食堂（朝）
				直人と麻子が朝食をとる。
	直　人「いま一度、竜太郎ご老人に会わねばならない。でもその後は東京に帰ろう。支度を済ませておいてくれ」
	麻　子「あら！　分ったの、真相？　でも言いたくないから逃げだすわけ?」
	直　人「手におえないからだ。証拠もないし、真相もへったくれもない。あとは谷口君がやるだろう」
				せんせいー、と叫びながら春香が駆け込んでくる。
	春　香「（息を切らせて）政次郎叔父が……パトカーで」
	直　人「うむ……夕べ深夜、叔父さんはどうしていたか、分りますか?」
	春　香「いいえ……多分、天井桟敷で飲んでいたと思います」
	直　人「無きに等しいな、アリバイが」
　　９２　湯布院警察署・捜査本部・取調室
				山内主任らが政次郎を訊問している
	山　内「昨夜は天井桟敷に行ってたとか、何時頃ですか?」
	政次郎「いちいち覚えておらん。マスターに聞けば分るだろう」
	山　内「9時45分から11時半まで、だそうですね。水割り4杯。だが、何度も席を外したそうだね？　どこへ行ったんです」
	政次郎「何が聞きたいのだ」
	山　内「執事の宇田川さんと会ってたんじゃないか。宇田川さんはあんたが家を出ていったあと直ぐ、出掛けたそうだ。
		お手伝いさんの上森愛子が見てる」
				若い刑事Ａが怒る。
	刑事Ａ「嘗めるなよ、警察を。あんたは政治家に顔だそうだが、殺人事件だぞ、これは」
				山内がコーヒー缶を入れたビニール袋を取り出す。
	山　内「これ分りますね……宇田川さんが亡くなっていた場所で見つけたもので、毒がまだ残ってましたよ。問題は缶に付着
		ししていた指紋でね。二種類ある。ひとつは宇田川さん、もうひとつは、覚えがある筈だが」
				聞いている政次郎の顔色が変わり、震えだす。
	政次郎「何を言うか、わしは知らんぞ！　何もやっておらん!」
　　９３　高梨家・座敷Ｂの前廊下
				春香が直人と来る。
	直　人「私、ひとりのほうがいい」
				春香、不安そうに頷く。
　　９４　高梨家・座敷Ｂ
				直人、入って来る。
	直　人「いかがですか、具合は?」
	竜太郎「いったい、どうなってるんですか、先生?」
				鋭さを失わぬ眼差しで見返す。
	直　人「見て頂きたいものを、持参したのですが」
				『宇田川』の手紙を取り出して渡す。
				手が震えだし、
				蒼白となる。
	竜太郎「これは……なんたること……｝
				直人、竜太郎の様子を見守る。
	竜太郎「このことは、他に誰か」
	直　人「私だけです。もちろん、警察にも……もし知らせれば、ますます政次郎さんの容疑が濃くなるだけですから」
	竜太郎「ああ……先生は全て見抜いている。それならこの死に損ないの老人の、最後の頼みを聞いてくださらんか。この手紙
		は、無かったことに……頼む」
				竜太郎、必死の気持ちをこめて直人を凝視する。
	直　人「わかりました……忘れましょう」
	竜太郎「ありがとう、ありがとう……宇田川は誠実で、誠心誠意、尽くしてくれた。その気持ちを無駄にはできない（毒言の
		ように）……わしもこのままでは死ねなくなった」
				もの思いにふける竜太郎を残し、直人はそっと去る。
　　９５　廊下（朝）
				扉を閉めた直人、ハっとする。思い出す。
					×	×	×
				（回想S#78）
	宇田川「……殺された大木桂子と私は、弘一様が亡くなられてから……」
	宇田川「……殺された大木桂子と私は……」
					×	×	×
	直　人「なぜ宇田川は、『殺された』と言ったのだ!?」
					×	×	×
				（回想S#90）
	麻　子「……もしかしたら桂子さんは、竹西さんを殺した犯人を知ったために……」
					×	×	×
	直　人「麻子のほうが、よっぽど命探偵じゃないか」
　　９６　亀の谷山荘・表
				春香の車が入って来て止まる。降りる直人と春香。
				なかから飛び出してくる麻子とみち子。
	麻　子「いかがでした?」
	直　人「茶の一杯ぐらい、飲ませてもらいたい」
　　９７　同・ロビー・喫茶コーナー
				テーブル中央の囲炉裏に湧く鉄釜の湯。麻子が汲んで茶をたてる。
				春香とみち子はロビーで話しあっている。
				直人、茶を啜る。
	麻　子「政次郎さんが犯人なの？　手紙の内容から考えればそうとしか思えないけど」
	直　人「竜太郎氏と手紙のことは秘密にすると約束してきた」
	麻　子「警察にも？　でもそれでは宇田川さんが浮かばれないわ」
		脅かされてお金も返して貰えず、挙げ句に殺されたのでは何のために……」
	直　人「そうだ！　何のためか……夕べ君は手紙を読んで、『これで政次郎は遺産の分け前から外される』と言ったね。君の
		言う通りだ」
				直人の顔に確信が浮かぶ。
				窓外に急ブレーキの音が聞こえ、谷口が黒い車から降りて来る。
				春香とみち子も寄ってくる。
	谷　口「間に合った！　先生のことだから、さっさと空港に向かったんじゃないかと思いましたよ。実は遺書が出て来たんで
		す」
	直　人「なにッ、遺書が?」
	谷　口「銀行の貸し金庫にありました」
	春　香「じゃ、宇田川さんは、自殺だったのですね！」
				谷口は苦笑いして、
	谷　口「いいえ、トカゲの尻尾切の方」
	直　人「尻尾切り？　なンだ、生涯教育センターの首吊りの件か。それを先に言わないから行けない」
	谷　口「でもね、黒部個人秘書は遺書の他に重要な証拠を残してくれました。まだ申しあげられませんが、ひとつは金の動き
		の記録で、残念ながらわが母校が贈賄した金を黒部が生涯教育センターから相羽事務所の裏口座に移した小切手類で
		す。これだけでも相羽を逮捕に追い込めます。
	直　人「やっぱり……そうだったのか」
	麻　子「谷口さん！　いったい警察は政次郎さんをどう考えてるの。本気なの?」
	谷　口「（辟易して）捜査側は逮捕状を請求すると言うのですがねぇ。毒の入っていたコーヒー缶に政次郎氏の指紋がついて
		るものですから」
	春　香「でも政次郎叔父は、うちの冷蔵庫から同じ銘柄の缶コーヒーをよく取り出して飲んでいました。犯人はそれを利用し
		て叔父に罪を着せようとしたのではありませんか」
	谷　口「鋭いなあ、お嬢さん。宇田川さんの指紋だけ付けた缶を死体の傍らに落としておけば先ず自殺だと見做されたでしょ
		う。だが政次郎氏もそこまで頭が回らず、慌てて逃げ出したのだ、というのが捜査側の解釈でね」
				谷口は直人を振り向き、
	谷　口「逮捕状の請求は僕が抑えました。何より疑問なのは、政次郎さんには動機がありません。調べてみると、宇田川さん
		は高梨家の危機を何度も乗り切ってきた功労者だそうです。そんな高梨家の大黒柱を、どうして、政次郎氏が殺すの
		ですか。理由がありません」
	直　人「その通り、動機が問題なのだ。ひとつ君に問題を出そう。
		実験をごらんにいれるから証拠品と同じコーヒー缶を用意してくれ」
　　９８　金鱗湖・現場
				直人と谷口、麻子と春香も従いてくる。
				谷口は見張番の巡査に耳打ちし、張り巡らされたロープのなかに直人と入る。
				直人が宇田川の遺体があった場所脇に立つ。
	直　人「青酸毒は飲んだら即死する、といわれる。だが口に含んだままの一、二秒ならそんなこともあるまい」
				直人が缶のコーヒーを口に入れ、その缶を思い切り投げる。
				空中を飛ぶコーヒーの空き缶。
				だが、缶が発見された林の茂みには届かず、かなり手前に落ちる。
	谷　口「被害者が自分で投げたものじゃない。それは山内主任も験して確認しましたが」
	直　人「これは前置きだよ。実はこんなことを考えてみた。缶コーヒーを連想させない、例えばソフトクリームのコーンだが
		、これに毒入りの缶コーヒーの中身を移す」
				直人がポケットからコーンを取り出し、コーヒー缶のプルトップを引く。
　　９９　金鱗湖・現場の林のなか（イメージ場面Ｎ）
				宇田川がコーンに缶コーヒーの中身を移し、缶を茂みに落とす。
				足跡を残さぬよう注意しながら水辺に行く。
　１００　金鱗湖・（イメージ場面Ｎ）
				宇田川は決然としてコーンの毒いりコーヒーを口に含み、右手で泥を掬ってコーンに押し込み（重
				みをつけ）、湖水に投げ込む。
				口のなかのものを飲み下す……苦悶の表情となり、倒れ伏す。
　１０１　金鱗湖・もとの現場
	直　人「コーンなら水に溶け、残らない。これで他殺の状況が出来上がる」
	谷　口「まさか……自殺だと仰るのですか?」
				直人は思い浮かべる――
					×	×	×
				竜太郎が必死の気持ちをこめて直人を凝視し、
	竜太郎「……最後の頼みを聞いてくださらんか。この手紙は、無かったことに……」
					×	×	×
	直　人「俺は……（言えない）、俺は論理的な推理を、ひとつ挙げただけだ。宇田川さんは自殺だとすれば筋が通る、と思わ
		ないかね。宇田川さんの目的は、政次郎氏に殺された状況を残すことだったのだ」
					×	×	×
				宇田川がコーヒーの缶を茂みに落とす。
					×	×	×
	谷　口「そんな面倒なこと、何故ですか」
	直　人「遺産の分け前で、政次郎氏に文句言わせないことだろう」
	谷　口「なるほど、ちょっと独言を言います……別件で政次郎氏を拘引します。貸金庫のなかには黒部秘書が撒いた金のリス
		トがありまして、此処の選挙区は政次郎が前買収工作をやったのです。地検の特捜の管轄で、厳しい調べになるでし
		ょう」
				春香は思わず手で顔を覆う。
	直　人「では俺も独言を……」
				直人が春香を見て、
	直　人「春香さん、ちょっといいかな？　宇田川さんは車を運転しますね?」
	春　香「はい」
	直　人「（麻子に）やっぱり君の言う通りだ。大木桂子さんを竹田から乗用車で連れ戻したのは宇田川さんだ。別府あたりに
		レンタカーを借り出した記録があると思う。それが大木桂子殺人の手掛かりになるだろう」
				谷口は、はッとして直人を見る。
	直　人「谷口君、あとはよろしく頼む。単位を落とさないよう頑張ってくれたまえ」
　１０２　馬車乗場（珠の湯旅館近く）
				バッグを持ち、帰り支度の直人と麻子が話しながら来る。
	直　人「今となっては推察だが、宇田川さんはもともと竹西にゆすられていたんだ。大木桂子と男女の仲だったのを竹西が見
		破ったのだろう。大木桂子という女性も高梨家の跡取り、長男の弘一の養育を引き受けて、嫁にもいかなかったそう
		だね。宇田川さんと桂子さんが寂しさから深い仲になることは理解できる。だがふたりは、『不義は御家のご法度』
		という倫理観に凝り固まっているから、竹西にそれを主にバラすぞと脅かされては抵抗できなかったのだ」
	麻　子「不義だなんて言うけど……お二人はそれぞれ独身じゃありませんか」
	直　人「いや、宇田川さんのように厳しい倫理観に生きてきた人たちは、結婚を抜きにした男と女の関係を暴露される事が、
		死ぬより恥ずかしかったに違いない」
				馬車が着く。ふたり、チケットを渡して乗る。
　１０３　馬車が行く
				見物もそっちのけで麻子が話の続きを催促する。
	麻　子「竹西に脅迫されて、それから宇田川さんはどうしたの？」
	直　人「一時の事と思って金を貸した。それが悪かった。竹西に搾られるだけ搾られて、経理にどんどん穴をあけた。ここに
		きて主が死ねば、当然税務署の調べで不正は明るみにでる。追いつめられた宇田川は――」
					×	×	×
				（イメージ間面　天井桟敷ちかく　Ｎ）
				宇田川をせせら笑う竹西――思わず宇田川は竹西を突き飛ばす。倒れた竹西は頭が岩にぶつかる。
				大声あげかける竹西に宇田川がとびかかり、無我夢中で岩に叩きつける。
					×	×	×
	直　人「竹西を殺して自分の罪を償うとともに、自分と桂子の関係を竹西に転嫁して誤魔化そうとしたのだろう。竹西が桂子
		から借金してると山内主任に吹き込んだのも宇田川に違いない。だが大木桂子のほうは恐ろしくなった。事情を打明
		けて相談しようと、俺たちを追って竹田に来た。それに気付いた宇田川さんは桂子が秘密を守り切れないと見て、レ
		ンタカーで追いつき……」
					×	×	×
				（イメージ場面）
				桂子の傍らに車が停まる。宇田川が下り、驚く桂子に乗れと言う。
				抗うのを無理に乗せる宇田川――
	直　人「桂子を連れ戻したのだ」
　１０４　由布院駅前通
				馬車は駅に向かって行く。
	麻　子「その夜ね、宇田川さんが桂子さんを殺して自殺に見せかけたのは?」
					×	×	×
				（イメージ　由布院神社横手　Ｎ）
				宇田川が桂子と争う。
	桂　子「恐ろしくて……もうだめ。竹西の顔がチラついて、喋っちゃいそうになる！」
	宇田川「許してくれ、いま喋られたら今までの苦労が泡となる！」
				宇田川の手が桂子の首を締め付ける。
	宇田川「春香さんと雄一様を高梨家の大黒柱に据えたら、俺もお前の後を追うから……」
				宇田川の目に止めどなく涙が流れる。
				ぐったりと崩れる桂子。
					×	×	×
				麻子は手で顔を覆うが……
	麻　子「桂子さんの口を塞ぐためだなんて……（強く）それじゃ、桂子さんがあまりにも可愛そうじゃない」
				直人、頷く。
	直　人「抵抗した跡がなかったそうだ。桂子さんも死ぬ気だったのだろう。宇田川にすれば心中のつもりだったのかもしれな
		い。彼は恥を知る人間だった。政治家が金や権利を巡って不正に塗れるのが今の日本の現状だが、正直で黙々と働く
		宇田川のような人々こそ日本人の原点ではなかったのか。今後、谷口検事は真相をつきとめるに違いないが、被疑者
		宇田川は死亡してるから捜査も終わり、裁判はない」
	麻　子「せめてもの救いね」
　１０５　高梨家・座敷Ｂ
				春香が雄一とみち子を伴って、お父さま、と入ってくる。
				身を起こそうとする竜太郎を春香が介添えする。
	竜太郎「和泉先生は?」
	春　香「いまお帰りになりました。お父さま、板阪みち子さんをお連れしました……」
				竜太郎、見る。
				雄一が傍らに進み、
			「おじいちゃん……」
				竜太郎の目が見開かれる。
	雄　一「（胸を張って）ぼくのママだよ」
				みち子は胸が迫って声がでない。
	竜太郎「孫を……立派に育ててくれた……ありがとう。儂にはそれしか言えないが、宇田川の命を懸けた志を無為にはせず、
		弘一の妻と息子を我が家に迎えよう」
				春香が竜太郎の手とみち子の手を重ねさせる。
　１０６　由布院駅前
				馬車を降りた直人と麻子のふたり、駅へ。
	麻　子「慌しい旅だったけど、由布院の静けさと美しさは良かったわ。雄一君親子も未来を此処で築くのね」
	直　人「お前はオセンチで、いいなあ」
				笑い出すふたり。
				その前に停まる春香の車。なかから飛び出してくる雄一。
	雄　一「おばさん！　帰っちゃうの?」
				麻子の手を握る。みち子と春香が頭を下げて、
	みち子「私たち、高梨家の籍に入れ、とお父さまに言われました。
		弘一さんのお墓に相談します。宇田川さん、大木桂子さんのお気持ちに励まされ、勇気を奮い起こ
		して由布院に来たこと、今では良かったと感謝してます」
	春　香「高梨旅館をひとりでやってくなんて、考えるだけで途方に暮れますけど、今度はお姉さんも居てくれるから（と、み
		ち子を見る）」
	麻　子「お幸せに、音」
				ゆふいんの森号がホームに入って来る。
				
				直人が麻子を急がして改札へ。
				見送るみち子たち。
　１０７　走るリゾート・エクスプレス
　１０８　大分空港を離陸するジェット機
                                                                                                                   （終）