源義経が兄・頼朝のもとに馳せ参じ、黄瀬川の対面を果たしたのは1180年(治承4年)、衣川の館で自害して波乱の生涯を終えるのが1189年(文治5年)―――この戦争の天才が歴史に登場する期間は、わずか9年足らずの事に過ぎません。源義経という男は、おごれる平家を滅ぼすために忽然と姿を現し、その没落を見届けると、再び忽然として姿を消したように思われます。木曽義仲追討から壇ノ浦まで、その戦歴があまりにも輝かしく華やかであっただけに、死の直前に繰り広げられた奥州への逃避行は、なお一層悲劇的です。義経の生涯を描いた物語「義経記」によれば、
1185年(文治元年)11月6日、源義経主従は西国での再起を期して大物浦(現・兵庫県尼崎市)から船出します。壇ノ浦(現・山口県下関市)での、平氏に対する華々しい勝利からわずか7ヶ月後のことでありました。一行はたちまち嵐に遭遇しました。天王寺の浜に漂着した時、従うものは 愛妾・静御前のほか、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、佐藤忠信、伊勢三郎ら10数名に過ぎませんでした。
12月14日の朝まだき、一行は吉野(現・奈良県吉野町)に入りました。ここは、山伏の開祖・役行者以来女人禁制の山でした。義経は弁慶らの諫言を入れて、せっかくここまで引き連れてきた静御前と別れなければなりませんでした。「判官(義経のこと)思ひ切り給ふ時は、静思ひ切らず、静思ひ切る時は、判官思ひ切り給わず、互いに行きもやらず、帰りては行き、行きては帰りし給うけり」という有様で、2人は深く別れを惜しみました。
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捕らえられて鎌倉に送られる静の過酷な運命を知るよしもなく、義経は中院谷というところに身を潜めているところへ、吉野山の衆徒が攻め寄せてきました。このとき、頼朝の戦陣に加わる前に身を寄せていた平泉時代から義経の信任厚い郎党・佐藤忠信が、死を覚悟の殿(隊列の最後尾)を申し出ました。忠信は「故郷にある母が、せがれは吉野で打たれたと聞けば悲しむでしょう。私や屋島の合戦で君(義経)の身代わりとなって死んだ兄・継信の供養などは無用ですから、ただ母1人をお心にかけてください」といい、主従は涙ながらに別れました。義経愛用の「緋縅の鎧に白星の兜」を身につけた忠信は、鬼神のごとき働きを見せました。そして、ようやく逃れて密かに京に忍び入るが、義経の足跡を探し歩くうち、不運にも六波羅(京に置かれた頼朝の出先機関)の兵に遭遇して華々しく討ち死にを遂げました。
義経はいったん都に舞い戻ったものの、もはや身を置く場所はどこにも無く、以前世話になった藤原秀衡を頼って奥州平泉におちのびるしかありませんでした。一行は、弁慶の思案で山伏姿に身をやつしました。「
(現・山形県の羽黒山)山伏の熊野(現・和歌山県の熊野三社)へ参り、下向する」という触れ込みでした。義経は、垢づいた白い小袖2つに矢筈(矢の上端の、弓の弦を受ける部分)模様の白地の帷子(裏をつけない衣服)、葛で編んだ大口袴に群千鳥の模様を摺りだした柿色の衣と言う出で立ちでした。古びた頭巾を目深にかぶり、戒名を大和坊と名乗ることになりました。大物浦で別れたままになっていた北の方(正妻)も、稚児(寺院などで召し使われた少年)姿に身を変えて連れて行くことにしました。
1187年(文治3年)2月2日のまだ夜の明けぬうちに、主従は密かに旅立ちました。噂を聞き知った 大津(現・滋賀県大津市)領主・山科左衛門が園城寺の僧を騙って待ち受けるところを、大津次郎というものの計らいで船をしたて、琵琶湖対岸の海津(現・滋賀県マキノ町)の浦に着きました。海津から「人跡絶えて古木立枯れ、巌石峨々として、道すなほならぬ」愛發山(現・福井県敦賀市)を越えました。越前国(現・福井県東部)に入り、三の口という関所や名だたる名刹・平泉寺では、判官殿の一行ではないかと度々疑われながら、弁慶の機転で通りぬけることが出来ました。まさに薄氷を踏む思いの敵中突破でした。
如意の渡しという所で船を求めるが、渡し守の平権守は、4人5人は知らず、山伏が10人もやってきたら判官かも知れない。すぐさま届けるようにと下知されている、といってどうしても船を出さない。弁慶が、それならば「そもそもこの中にこそ九郎判官よと、名を指して宣へ」というと、平権守は「あの舳に群千鳥の摺の衣召したるこそあやしく思ひ奉れ」と応えました。弁慶は大いに怒って、義経の「御腕を掴んで肩に引掛けて、浜へ走り上り、砂の上にがはと投げ捨てて、腰なる扇抜き出し、労はしげもなく、続け打ちに」打擲する。渡し守はこれを見て「判官にてはなし」と納得したのでした。
奈呉の林(現・富山県新湊市)まで来たとき、弁慶は義経の袖にすがりつき、危地を脱するためとはいえ、御主君をこのように無惨に打ってしまった、といって涙を流しました。義経は「斯程まで果報拙き義経に、斯様に心ざし深き面々の、行く末までも如何と思えば、涙の零るゝぞ」と答え、衣の袖を濡らしたのでありました。
直江津(現・新潟県上越市)から船を仕立て、佐渡まで吹き流されたりしながら越後国寺泊(新潟県三島郡寺泊町・市町村合併により2006年1月1日より長岡市)に到着しました。それから海沿いに北上し、越後(現・新潟県)と出羽(現在の山形・秋田両県)の国境にある鼠ヶ関(山形県西田川郡温海町・市町村合併により2005年1月1日より鶴岡市)の関所も無事に越え、「三世」というところでは、領主・田川太郎実房の1人息子の瘧病を祈祷によって直したりしました。「羽黒の御山」には弁慶が代参する。清川(山形県東田川郡立川町・市町村合併により2005年7月1日より東田川郡庄内町)から船で最上川を上り、名勝・白糸の滝を見て北の方が、「最上川瀬々の岩波堰き止めよ寄らでぞ通る白糸の滝」と詠みました。会津の津(現・山形県新庄市)で船を捨て、義経が「三日の寄り道になるが宮城野の原、榴が岡、千賀の塩竃などというところを見物しながら行ってはどうか」と言いましたが、結局は「名所々々を見たけれども、一日も近く候なれば。亀割山とやらんにかゝりてこそ行かめ」ということになりました。
亀割山(新庄市の西方の小山)を越えたところで、北の方が「御産ちかくなりければ」、とある大木の下を産所と定めました。里にも遠く、一夜の宿を求めるべくもなかったのでした。
義経は「義経一人を慕い給ひて、かゝる憂き旅の空に迷ひつゝ、片時もこゝろ安き事を見せ聞かせ奉らず、失ひ奉らん事こそ悲しけれ」など、おろおろするばかりでした。
弁慶は深い谷まで降りて行って、やっとのことに水を汲んで戻って来ると、息も絶え絶えの北の方を「押起()し奉り、御腰を抱()き奉り、南無八幡大菩薩、願はくは御産平安になし給へ。さてわが君をば捨て果て給ひ候や」と祈るのでありました。そのかいあって無事に赤ん坊が生まれました。弁慶は赤ん坊を「篠懸()(山伏の着る衣)に押巻()きて抱き奉」り、「これは亀割山、亀の萬劫()を取りて、鶴の千載()になぞらへて、鶴亀御前」と名付けたのでありました。
3日目に下り着いた「せひの内」(弁慶が発見したという伝説がある瀬見温泉()か)で一休みし、馬を調達して栗原(宮城県栗原郡栗駒町()・市町村合併により2005年4月1日より栗原市)に到着したところで、義経は平泉へ亀井六郎と伊勢三郎を使いに出しました。これに対し、藤原秀衡の嫡子()・泰衡()が150騎をもって迎えに参上しました。義経主従が平泉に到着したのは、ようやく1187年(文治3年)も暮れようとする頃でありました。
藤原秀衡が病死すると、頼朝は、奥州への圧力をにわかに強めました。義経を討てば所領を安堵()するが、かくまえば朝敵と見なすというのでありました。これに抗しきれなくなった藤原秀衡の嫡子・泰衡は、1189年(文治5年)閏()4月30日、ついに義経の館を襲いました。
義経の活躍を描いた軍記物語「義経記」にも、この場面は描かれています。一方の主役は、義経の側近中の側近といわれる武蔵坊弁慶です。見方が次々と倒れる中、孤軍奮闘となった弁慶は、敵を打ち払うと長刀()を逆さにして杖()とし、仁王立ちになりました。その姿はまるで、金剛力士のようでありました。鎧に矢が立つことその数知らず、その矢を折り曲げ折り曲げしながら戦闘を続けたから、まるで蓑()を逆さまに着たようでありました。そして弁慶は、立ったままその最期を遂げることとなりました。
一方、主人公である義経の最期は、以下のように描かれています。左の乳の下から背中にまで刀を突き立てて、疵口()を三方へ掻()き破り、腸()をえぐり出し、刀の血糊()を衣の袖で拭い清めると、脇息()もたれかかった―――。
このとき、義経31歳。「平家物語」の戦場を駆け巡る姿とは異なり、「義経記」では弱い一面を見せることの多い彼にとって、数少ない雄雄()しい場面であります。軍記物語の常として大仰()に描かれてはいますが、英雄らしい壮絶な最期でありました。