瀧廉太郎たきれんたろう

不朽の名曲「荒城の月」を作曲し、23歳の若さで夭逝ようせつしました。少年期を山紫水明の故郷で修学し岡城おかじょうは絶好の遊び場であり、四季に移ろう自然の中から音楽の天分を育みました。1879年(明治12年)東京で誕生しましたが、1891年(明治24年)父が直入郡長として竹田に赴任した時廉太郎12歳でした。2年4ヶ月後、最年少(14歳)で東京音楽学校に入学しました。1897年(明治30年)2月「きぬた」作歌、3月「日本男児」・7月「春の海」作曲、12月「枯野の夕景」作歌、1899年(明治32年)「四季のおぼろ」作曲、1900年(明治33年)10月「メヌエット」作曲・11月「四季」作曲・月不明「古城」作詞、明治34年「荒城の月」・「箱根八里」・「豊太閤」等次々に作曲しました。同年4月6日にドイツに向けて横浜を出航し、10月ライプティヒ国立音楽学校に入学しました。異郷の空で病に冒され、志半ばで帰国しました。1903年(明治36年)2月14日うらみが最後の作曲となり6月29日故郷大分で23歳と10ヶ月の生涯を終えました。

記念写真