岡城の 三の丸跡さんのまるあと

岡城中枢部である本丸・二の丸・三の丸は、文禄3年(1594)初代藩主中川秀成なかがわひでしげが入部して普請を始め、天神山を本丸として慶長元年(1596)に完成しました。その後、明和8年(1771)の大火災により焼失し、全体の再建には享和3年(1803)までかかっています。三の丸は「本丸、二の丸、三の丸御殿平面図」の絵図から当時の郭を考察すると、西側に「太鼓櫓」、東側に「御門櫓」(うずみ御門)の2箇所に入り口がありました。「太鼓櫓門」を入ると石段が2箇所あり、東側には通用口、北側には藩主専用の「御成門」がありました。通用口には「番所」を設け、石段を上がると右手には「塩倉」、「渡櫓」が「御門櫓」まで連なっていました。また、段差が高く幅の狭い「御成門」の石段を上がると「太鼓櫓」から連なる「平長屋」、二階建ての「弓櫓」、「長屋」が二の丸までありました。三の丸はこれらにより囲まれていました。殿舎は南向きに「玄関」を設け、四十畳の「寄附」、三十畳の「御広間」、床・棚・書院付きの「上の間」、そして2部屋の「御次の間」が設けられていました。三の丸は他藩の使者や家臣が藩主と対面する場として使われていたと考えられます。殿舎のあった位置には、土壁の跡が今でも残っています。