サンチャゴの鐘

明治4年(1871)、大政官の布令によって岡城を壊しましたが、この時藩士たちは城内で藩祖を祭っていた荘嶽社を藩騎射場と茶屋のあった田原常盤山上に移しました。そして時鐘堂の太鼓や観音堂にあった銅鐘、藩船住吉丸の羅針盤などを一緒に運び社宝として収蔵しました。この銅鐘は高さ83cm、下部円周は2mで「HOSPITAL SANTIAGO 1612」の銘があります。どうしてこの銅鐘がこの地にあったかについてはいろいろな説があり、長崎にあったものを竹中菜女正が府内に運び、改易の際、城番となった岡藩二代久盛公が譲り受けたのではなかろうかとか、本来志賀、中川ともに切支丹を理解していたので、1612年以前にこの銅鐘を発注して完成したが、禁教令の後で秘密に倉入りさせたものであろうとか。さらには次のような説もあります。この鐘は日本で鋳造した物ではなく、中国または東南アジアのどこかで鋳造され、舶載したまま日本に寄港したか、近海航行中に難破し、救助した人々と当時の中川藩主によって積荷が処理され、その中にこの銅鐘があり、藩主はこれを崖下にある清水谷の中腹にあった観音堂に収蔵し他見を許さなかった。こうした事情から豊岡古人語集の中に「朝鮮国より持ち帰りし鐘あり」と年代の合致しない記録を残しているのではなかろうか。というように以上、伝来に数説がありますが、どれが真実に近いのか判然としていません。昭和25年(1950)8月29日、サンチャゴの鐘は国の重要文化財の指定を受けました。