緒方三郎惟栄おがたさぶろうこれよし

大神惟基これもと の五世で緒方郷を与えられたので性とし緒方三郎惟栄と名乗り、豪族でありました。緒方村上自在に館を作り、現在はその跡地に1基の碑が建っています。源平の戦いに義経に味方をし、5万の兵(水軍82隻)を率い、1183年(寿永2年)9月壇ノ浦だんのうらで平家の軍を破りました。その後、朝廷に収める年貢米の強奪を図り、一度は朝廷から島流しまで会うが、水軍及び兵力並びに今までの働きにより許されました。しかし、宇佐八幡宮司の妻は、平清盛の娘であるから情けとして平家に味方し、平家一方の将但馬守経政をかばっていることを嗅ぎ出した緒方の郎党は、心無くも宇佐八幡宮に火を放ちました。その後、緒方三郎惟栄は上州(群馬県)沼田に流され、その地に某女を娶り一子をもうけ沼田と名乗らせ、大分県速見郡山香(2005年10月1日から市町村合併で大分県杵築市山香町となる)で亡くなりました。現在は、山香にお墓があります。伝説によれば、大蛇の化け身と語られ、家紋は、鱗門うろこもんが使われています。