初代藩主 中川 秀成なかがわひでしげ

文禄元年(1592)10月、朝鮮に出陣していた中川秀政公が水源城で失態を演じ戦死しました。これが太閤の忌諱きいに触れ、太閤は弟の秀成公に相続は許したが、三木城から伊予の宇和島、淡路の須本、豊後の岡の3箇所のいずれかに入封するように命じました。秀成がこの3ヶ所の中から「岡」を選んだのは、太閤検地で豊後国を検地中だった山口玄蕃の助言によるといわれています。秀成公は玄蕃から「豊後は7万石だが15万石に相当する実収があり、加えて尾平、木浦といった錫、鉄、銅鉱の山があり、この戦国の時、弾丸の原料が豊富にある」と聞き、これらの魅力が秀成を動かしたと思われます。しかし、辺地に移されるくらいならと、居残って浪人を決意する者もあり、特に婦女子の抵抗はかなり激しいものがあったようです。太閤は文禄2年(1593)11月19日付書簡で「その方事、来春豊後へ遣わされ候。ついては家来ことごとく召し連れまかり越すべく候。自然逐電しぜんちくでんの族、これあり候えば、追って先々成敗を加うべき也」と書き送り、全員を封地に移らしめました。武士はこれで一応、一件落着の態でしたが、婦女子の愚痴はいっこうにおさまらず、これが藩主の耳に達しました。そこで秀成公は岡藩に移ったら直ちに京都風の町をつくり、播州、京阪の商家を移す計画を家中に発表しました。当時は今のように赴任手当はないので、移転費は全て自弁でした。相当の費用を要したと思われますが、これはすべて堺商人で武士志望の柴山両賀が援助しました。文禄3年(1594)2月、播州三木城から国替えで岡藩主として入部した中川秀成は、入城を終えると居城である岡城の整備と約束の通り、丸山籐左衛門を奉行として城下町づくりを始め、東西五条、南北五条の町並みができあがりました。岡城は周囲に山丘や谷が錯綜して他国から潜入した者には城と城下町との結びつきを知ることが困難でした。当時、西国一帯を調べて歩いた古川古松軒の「西遊雑記」にも「山城」として記されており、城下町との結びつきに気づいていないようでした。城が手狭であったため、天神社のある山を切り開き、さらに岡村(西丸付近)まで拡張して形体を整えようとしました。縄張、御普請、石引奉行を任命し、工事の施工には大阪から招いた穴太伊豆があたったと言われています。慶長元年(1596)、現在の城址のように完成しました。町の建設が進む一方で、秀成は領内の民百姓の動向、特に年貢明細を調査し、半減した七万石の実態と藩士の禄高をはっきりしなければなりませんでした。庄屋は、天正14年(1586)、15年の島津軍の入豊で戦火に遭ったため古帳簿は焼かれ、さらに文禄2年(1593)の大友国除によって記録等を紛失したとして年貢帖の提出を拒み、新しい領主のやり方をうかがう様子を見せました。先の大友旧臣の赤岩の抵抗と違い、秀成は領土内の人々の心をつかむのに特に気を使っていただけに苦慮し、本城普請の最中なので用心にと片ヶ瀬原に野陣を張り軍律を厳しくしました。一方では地元の人たちとの融和をはかり、下片ヶ瀬の由布九郎左衛門を庄屋に任命し緒方郷各村に通じる道路の要衝に置きました。さらに城縄張奉行の石田鶴右衛門を長として役人を配置し、張りつけ柱を立て年貢帖を提出しない村は、はりつけに処すとの命令を下しました。先の融和策とこの厳命に各村の世話役は恐れ、ことごとく帳面を提出したそうです。