南北朝なんぼくちょう時代の到来

鎌倉幕府を打倒した後醍醐ごだいご天皇は、自ら政務を執りました。いわゆる建武の新政です。しかし、倒幕の立役者である武家を冷遇し、主力であった足利尊氏あしかがたかうじが、1336年(延元1・建武3)6月不満を持つ武士を率いて後醍醐に反旗をひるがえし、一度は朝廷軍に敗れた足利尊氏が勢力を盛り返し、京へ攻め上りました。仕方なく比叡山へ退いた後醍醐天皇に対し、花園上皇、光厳こうごん上皇、豊仁とよひと親王は尊氏側に付き、合戦が始まりました。やがて戦況は小康しょうこう状態となり、尊氏は豊仁親王を光明こうみょう天皇として自身の正統性を示しました。ここに皇室は、後醍醐天皇の大覚寺統だいがくじとうと光明天皇の持妙院統じみょういんとうに完全に分裂しました。さらに尊氏は、後醍醐に「必ずまた皇位にお就けする」と持ちかけて京都に戻るように促し、帰京した後醍醐を花山院かざんいんへ幽閉した上、 三種さんしゅ神器じんぎも取り上げ、光明天皇へ授受しました。しかし後醍醐側もこのままでは終わりませんでした。刑部大輔景繁ぎょうぶのたいふかげしげの進言により、後醍醐は再起を決意しました。後醍醐は女房の格好をして、土塀の崩れた穴から脱出しました。人夫に扮した景繁は三種の神器を弁当のように見せかけて持ち、追っ手が来ないか、見破られないかと冷や冷やしながら、後醍醐は吉野への脱出に成功しました。吉野は、これまでの歴史においても敗者がもってリベンジを図る場所でした。後醍醐もその時、その思いであったに違いありません。交通、地形の条件から見ても好適な場所であり、周辺には、後醍醐が抱え込んでいた悪党、それに異形いぎょうと呼ばれる山伏などアウトローな人々の勢力もありました。こうして、吉野の後醍醐天皇による南朝、京の朝廷による北朝の両朝が立ち、政権が分立する南北朝時代が始まりました。

南北朝動乱の日々
すでに足利氏によって光明天皇が立てられているのに対して、幽閉されていた花山院から脱出した後醍醐天皇が吉野に入り、重祚ちょうそ(退位した天皇が再び皇位に就くこと)しました。年号も延元を復元したこのときを、「大乗院だいじょういん日記目録」では、「一天両帝南北京也」といっています。後醍醐天皇は執念で南朝を確立したが、践祚せんそ(天皇の位に就くこと)の手続きとしては光明天皇に落度はないので、武力によって光明天皇を倒そうとしました。それは足利氏との戦いでもありました。しかし、諸国の武士による軍事力を集めただけでは十分ではなく、各地に派遣されていた皇子たちによりそれぞれの地域で基盤を固め、北朝勢力を包囲しようとしました。なかでも、北陸の新田義貞にったよしさだと畿内の楠木正行くすのきまさつらが率いた和泉・河内の反足利軍に期待し、奥州の北畠顕家きたばたけあきいえの遠征を待って、結集した軍事力で挑む戦略を立てました。南北朝争乱の舞台が、ほぼ日本全土に及んだというわけは、このような理由からであり、地方武士たちの利害敵対関係も絡んで、激化していきました。後醍醐天皇の執念で始まった南北朝時代ですが、後醍醐の死後も地方の争乱は治まらず、後村上天皇への譲位が行われたため、この後、約60年間争いが続きました。