武家屋敷通ぶけやしきどお

武家屋敷が軒を連ねていたところで、天明7年(1787)の「岡城城下家中図」からも分かります。この通りに住んでいた武士は役向きに統一性は無く、石高こくだかがほぼ百数十石だったようです。この通りは両側に土塀と門が往時を偲ばせ、その長さは120mほどです。特に、土塀は長い風雪に耐え忍び、歴史の重厚さを感じさせます。この風情に溶け込むように古田家の中間長屋門ちゅうげんながやもんは存在します。古田家中間長屋門は、昭和63年(1988)度に解体保存修理されました。この保存修理により長屋門の半分は、弘化4年(1847)に建てられた中間長屋が元をなしていた事が判明し、江戸時代の間、中間長屋として利用されていたようです。その後、明治の初期に養蚕ようさんのため従来の中間長屋と棟続きとした長屋門に改築されています。保存修理は、殿町の武家屋敷群の風情を損なわせること無く、中間長屋部分は、建築当時のままに保存修理されています。