文人・墨客と交際の広い 田能村竹田たのむらちくでん

田能村竹田は文化10年(1811)35歳の時、隠居を許され、自由の身となりました。だが、直ちに「画聖」竹田ちくでんが誕生したのではありません。画家として円熟するのは、50歳以後と見られており、それまでの十数年間は、引き続き厳しい修業の時代でした。この間、竹田はあちこち旅行して、各地の文人・学者と交流しました。頼山陽らいさんようはじめ、青木木米あおきもくべい浦上春琴うらがみしゅんきん雲華上人うんげしょうにん小石元瑞こいしげんずいらとの交流は有名です。文政5年(1821)には杵築へ遊び、高橋草坪たかはしそうへいを見出し門弟にしました。同7年には帆足杏雨ほあしきょううが入門し、門弟も多く養いました。竹田の絵に大きな転機をもたらしたのは、文政9年(1826)50歳の時の長崎旅行とされています。長崎で中国人の絵を沢山見て、「日本の画工の軽薄さでは、とても及ぶところではない。もはや絵をやめようかと思う-」と、高橋草坪に書き送ったほど、ショックを受けたようです。しかし、文人、教養人としての竹田は、絵の専門家ではないことを自覚して、新しい道を切り開きました。つまり、自分の絵はいかにも「拙」であることを自認し、そこに自らの特質を見出しました。文人画では、描かれた表面の姿がうまいとか、美しいとかいうよりも、「気韻生動」といって、一本の線、1滴の墨にも生命がみなぎっていることを重んじました。竹田は、画論として有名な著書「山中人饒舌さんちゅうじんじょうぜつ」の中で、「筆を用いてたくみでないのをうれいはしない。精神の至らないのをうれえる」といっているほどです。こうして、竹田独自の画境が開かれていきます。「松巒古寺図しょうらんこじず」「松泉山水図しょうせんさんすいず」「稲川舟遊図いながわしゅうゆうず」「船窓小戯図せんそうしょうぎず」「亦復一楽帖またまたいちらくじょう」は、竹田が大阪の松本酔古の依頼でかいたものですが、頼山陽にばつを頼んだところ、山陽がこれにほれこんで奪って自分のものにしたというエピソード付きの名作です。晩年の竹田は旅に明け暮れました。天保5年(1834)門弟の三宮伝太(田能村直入)を大塩平八郎の門下にし、翌6年、吹田村(大阪府吹田市)で発病、「不死吟ふしぎん」を絶筆ぜっぴつとして、59歳の生涯を閉じました。竹田の影響は大きく、江戸末期から明治にかけて、豊後は南画王国として、多くの画家を生み出しました。竹田には「竹田荘師友画録」「竹田荘詩話」「瓶花論へいかろん」など著書も多数あります。