朝倉文夫あさくらふみお

1883年(明治16年)渡辺要蔵の三男として生まれました。1893年(明治26年)朝倉種彦の養子となり4月に直入郡高等小学校(当時竹田市は直入郡なおいりぐん)に入学しました。1903年(明治36年)20歳の時、東京美術学校彫刻選科に入学し、1907年(明治40年)卒業作品として「進化」を作成し、研究科に入学しました。その後1908年(明治41年)10月第2回文部省美術展覧会で「闇」・「老猿」、1910年(明治43年)10月「墓守」等次々に受賞作品を完成させていきました。現在竹田にある作品は、1917年(大正6年)10月の作品「時の流れ」は豊後竹田駅前に1971年(昭和46年)設置されました。1937年(大正12年)作「杉山敦磨胸像」は竹田高等学校に、1940年(昭和15年)作「文武の像」も竹田高等学校に、1943年(昭和18年)作「『翼』に続け」は竹田市役所に、1946年(昭和22年)作「生誕」は竹田市総合運動公園に、1949年(昭和24年)作「三相」は竹田文化会館に、1950年(昭和25年)作「瀧廉太郎像」は岡城二の丸跡に、1957年(昭和32年)作「藤丸警部坐像」は西光寺に、1959年(昭和34年)作「競技前」は竹田高等学校にそれぞれ設置されています。この様に日本近代彫塑技法を確立し、明治・大正・昭和にわたり、日本美術界の重鎮であった彫塑家です。自然主義的写実描写に徹した精緻な表現姿勢を一貫して保ち続け、「東洋のロダン」と呼ばれました。